夏目漱石を読むという虚栄
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか
7311 「身一つ世人行くに無意味違約なく」
円周率は3として計算してよいことになるが、これはほとんど犯罪的である。図の円の半径を1とする時、円周率を3として計算すると、円周の長さは6となる。ところがその円に内接する正六角形の周の長さも同じく6となる。(正六角形は正三角形六個でできているから)。これは嘘(うそ)と言ってよい。円周の方が正六角形の周より「少し」だけ長いのは一目瞭然(りょうぜん)で、その「少し」が3・14の小数部分に表われていたのに、と思ってしまう。
(藤原正彦『祖国とは国語』「犯罪的な教科書」)
「ゆとり教育」に対するありふれた批判。
「円周率は3として計算してよいこと」が「犯罪的」なら、円周率をπとして計算するのはどうなのだろう。
「図」は省略。以下を読んで作図できない人のことは無視する。「半径を1とする」だってさ。弱ったね。どうして直径を1としないのだろう。「円周の長さとその直径との比」(『広辞苑』「円周率」)が定義だろう。2πrに拘り過ぎか。
「正六角形は正三角形六個でできている」は意味不明。
「その「少し」が3・14の小数部分に表われていた」というのは意味不明。〈円周率は3・14で計算してよい〉としたら、もっと「犯罪的」だろう。なぜなら、〈円周率は有理数〉ということになるからだ。つまり、〈円は正多角形の一種だ〉と定義したことになる。
藤原の祖国の国語では「祖国とは国語」という言葉に意味があるらしい。変な国。
私の祖国では、この「少し」を味わうのにいい方法がある。
これを覚えるのに「身一つ世人行くに無意味違約なく」「産医師異国に向かう。産後やくなく」など、いろいろな語呂(ごろ)合せが知られている。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「円周率」)
さて、暗い知識人の作文は、てんで意味不明。
さらに、教科書の内容が三割削減されるとか、円周率を「おおよそ三」として教えるといった話まで飛び交うようになると、文科省へのバッシングは一層激しいものになった。
(石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』「第二章 学校が殺したのか――教育崩壊」)
「おおよそ三」なら、「嘘(うそ)」ではない。
「国語力を殺す」は意味不明。〈殺す〉が「おさえて活動させない」(『広辞苑』「殺す」)という意味なら、「国語力」は活動できていたことになる。ところが、この本の主題は違う。生徒の「国語力」が育たない原因を探っているのだ。育っていないのだから、殺せない。
探偵さんよ、犯人は君達なんだよ!
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』
7312 教育は脅迫
知識人は知識人の小説を好む。
教科書から削除された「三割」の中には中学の国語の教科書の定番だった夏目漱石や森鴎外の作品も含まれていた。『吾輩は猫である』や『高瀬舟』といった作品に触れる機会がごっそり失われたのである。
(石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』「第二章 学校が殺したのか」)
『吾輩は猫である』は出鱈目。〔4100 笑えない『吾輩は猫である』〕夏目漱石を読むという虚栄 第二部 恐ろしく恐ろしげな「意味」 第四章 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで 4110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。
「作品に触れる」や「ごっそり失われた」は意味不明。
弟殺しの罪で遠島に処せられ、高瀬川を舟で下る喜助の心情を叙して、知足の境地や安楽死の問題などに触れた作品。
(『広辞苑』「高瀬舟」)
「知足」は『老子』からだろうから、これを先に読んどかなくちゃ。「安楽死の問題」は、ちょっとやそっとでは解けそうにない。でも、いいか。どうせ、「触れた作品」だからね。「問題などに触れた作品」を読んで、「問題など」が解けた、と思ってしまうのが知識人だ。
この『ルポ』なるものの冒頭で、『ごんぎつね』を誤読する生徒たちが俎上に載せられる。
〈よそいきの着物を着て、腰に手拭いを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました〉
新美南吉は、ごんが見た光景なので「何か」という表現をしたのだ。葬儀で村の女性たちが正装をして力を合わせて大きな鍋で何かを煮ていると書かれていることから、常識的に読めば、参列者にふるまう食事を用意している場面だと想像できるはずだ。
教員もそう考えて、生徒たちを班にわけて「鍋で何を煮ているのか」などを話し合わせた。ところが、生徒たちは冒頭のように「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と回答したのである。
(石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』「第二章 学校が殺したのか」)
この「教員」は「鍋で何を煮ているのか」教えてくれるのか。狸汁ならぬ、狐汁かもよ。
「消毒している」というのは湯灌からの連想だろう。「煮て溶かしている」というのは『かちかち山』からの連想だろう。そのように推測するのが普通人だ。人肉嗜食について、〔3453 カニバリズム〕夏目漱石を読むという虚栄 3450 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。
この「教員」には、生徒たちの思考について「常識的に」推測する能力が決定的に不足している。何様のつもりか。探偵さん、君も同様だよ。
知識人は、自分の知識や思考の不足などを反省することができない。自分とは意見や感想などの異なる人を嘲笑したり叱責したりする。さらには〈教育してやろう〉と思いあがる。
7000 「貧弱な思想家」
7300 教育は洗脳
7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』
7313 ミッキー・マウスか?
『ごんぎつね』の語り手は非常識だ。真味ない機知。
うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首(くび)にまきついたままはなれません。
(新美南吉『ごんぎつね』一)
常識では、鰻は巻きつかない。
「どこへいくんだか、前へまわって、うなぎに聞いてください」
(古典落語『うなぎ屋』)
「ごん」は、ミッキー・マウスみたいに二足歩行するらしい。指もあるようだ。手袋をしているかな。靴だって履いているかもね。口笛を吹きながら船を操縦したりして。
はたけへ(ママ)はいって芋(いも)をほりちらかしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ(ママ)火(ひ)をつけたり、百姓家(ひゃくしょうや)の裏手(うらて)につるしてあるとんがらをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。
(新美南吉『ごんぎつね』一)
「火」は狐火か。「むしりとって」というのだから、指があるのは確かだろう。「いったり」は〈炒ったり〉か。「ごん」は狐ではなく、不良少年みだいだ。
つぎの日(ひ)には、ごんは山(やま)で栗(くり)をどっさりひろって、それをかかえて、兵(へい)十(じゅう)の家(うち)へ行きました。
(新美南吉『ごんぎつね』三)
『ごんぎつね』の原典は『ごんべえだぬき』だろう。『ごんべえだぬき』は、突然、終了する。『ごんぎつね』は、お涙頂戴の結末をくっつけただけの出鱈目。作者は〈その後、ごんと兵十は友達になりました〉といったような結末を作れなかった。
兵(へい)十(じゅう)は今(いま)まで、おっ母(かあ)と二人(ふたり)きりで貧(まず)しいくらしをしていたので、おっ母(かあ)が死(し)んでしまっては、もうひとりぼっちでした。
「おれと同(おな)じひとりぼっちの兵(へい)十(じゅう)か」
こちらの物置(ものおき)のうしろから見(み)ていたごんは、そう思(おも)いました。
(新美南吉『ごんぎつね』三)
知識人は「ひとりぼっち」だ。その事実を隠蔽するために言葉を弄ぶ。致死奇人。
(7310終)