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あおり運転問題で日本人は欧米に学べることがある~DOL~

2017年11月17日 | 日記

 

 

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あおり運転問題で日本人は欧米に学べることがある
http://diamond.jp/articles/-/148556


一部引用

アメリカでクラクションが鳴らされない理由

基本的にロードレイジは、一方が相手を常に警戒していればそう起きやすいものではない。


アメリカ人にその話をしたら、「鳴らすわけないだろう。向こうにどんな奴が乗っているかわからないんだからな」と笑って返された。

 なるほど納得である。

“アメリカ的な感性”を持つことが日本でも必要なのかもしれない
 日本でも「相手がどんな人間か、わかったものではない」と考えるようにしていれば、結果的に大きなトラブルに巻き込まれることはないだろう。





「絡まれるリスク」を常に意識する長距離トラック運転手

 こういうトラブルに巻き込まれるのは、乗用車だけではない。
以前、全日本トラック協会のコンテスト取材のときに、1年に何十万キロも走る長距離トラック運転手とたまたまロードレイジの話題

になったことがあるが、長 距離運転手でもプロ意識をちゃんと持っている人は、相手がトラックであろうと乗用車であろうと、「絡まれるリスク」を常に意識するものだという。

「相手が明らかに暴力的だと感じた時ですが、まともに相手をするというのも、相手にしないというのも良くない。
走行中に突っかかられたときは、相手の気が済むように、あなたが偉いですよ、私は降参しましたというメッセージを運転で出す。
肝心なのは、相手の頭に血が上る前にそれをやること。これで相手が去らなかったということは、私の場合一度もないです。
部下にも、道路交通法や社内の規則を守っているんだから『自分は正しい』という意識を絶対に持つな、大型を転がしていると気が大きくなりがちだから気をつけろ、と口をすっぱくして言っています」

 繰り返しになるが、このように「明らかにどうかしている」というドライバー相手のロードレイジは、「世の中どんな奴がいるか、わかったものではない」という、自分の心の持ちようで相当回避できるものだろう。

もっとも、ロードレイジはそれだけではなく、普通の人たちの間でも起こる。こっちのほうが体感的には厄介である。

日米欧をドライブしていて、明らかに“善良な市民”と思われる者同士の競り合いが一番多いと感じるのはどこか。

実は、一番血の気が少なそうな日本である。

 渋滞時に合流で小競り合いをするクルマ。高速道路でスピードの速い車線を進路妨害同然の速度で死守するクルマと、それに煽りを食らわせるクルマ。
片側1車線道路をノロノロ運転し、後ろを散々にイラつかせるクルマ……。ロードレイジに発展するのはそのうちごく一部だが、現在問題視されている「あおり運転」のネタは道路にあふれ返っている。


過密状態になると人間は頭に血が上る

これらの問題は、頭に血を上らせた側の交通道徳のなさに起因するものとして、切り捨てられる傾向が強い。

だが、それは科学的な態度ではない。満員の通勤電車で「押した」「押さない」といったことでしょっちゅう揉めごとや喧嘩が起きているのを見れば

一目瞭然なように、人間とはそもそも、過密状態になるとイライラして頭に血が上る生き物のようだ。





トヨタの開発陣は欧州の交通慣習を学んだ

その一つは、交通教育を根本から見直すことだろう。例えば、こんな話がある。

欧州市場を主軸とするトヨタ自動車の世界戦略モデル「C-HR」の開発陣は、欧州の交通慣習をいま一度よく勉強したという。エンジニアの一人は言う。

「ドイツはセンターラインのない山道でも制限速度の100km/hで走り、相対速度200km/h近くで平然とすれ違うような国ですが、印象的だったことのひとつが、
自動車学校では発進時に後続車の邪魔にならないよう速やかに車速を上げるよう習う、ということでした。交通全体の中で、自分がどう振る舞うべきかを習うんです」

筆者は若い頃、イタリアの自動車学校に行った。そこで最初に強調されたのは、道路交通において重要なのは、他者の権利を尊重することだった。

「速く行きたいクルマを見たら速やかに進路を譲れ。交差する道路が優先道路だったら、その流れを止めない状況まで出るな。皆がそうすれば、自分の権利もおのずと守られる」と。

 これは「道路交通法に違反しさえしなければ、何でもあり」という日本の交通道徳とは、著しく異なる考え方だ。