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エホバの証人が国歌斉唱や国旗敬礼をしないのはどうしてですか JW.ORG~

2022年07月25日 | 日記

私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌,パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。

 


「エホバの証人が国歌斉唱や国旗敬礼をしないのはどうしてですか」


エホバの証人は,政府や国家の象徴に敬意を払います。ほかの人が国歌斉唱や国旗敬礼,忠誠の誓いをすることを尊重します。

でも,エホバの証人はそうしたことをしません。
聖書の教えに反していると考えているからです。エホバの証人は,自分たちとは違う考え方をしている人たちにも敬意を払っています。同じように,私たちの考え方も尊重してほしいと思っています。

この記事では次の点を考えます。

・ どんな聖書の教えが関係しているか

・ 法律で参加が求められている場合はどうか

・ エホバの証人は社会的,政治的な主張をしているのか

 

 どんな聖書の教えが関係しているか

エホバの証人は,次の2つの聖書の教えに従いたいと思っています。

・ 神だけを崇拝する。聖書にはこうあります。「あなたが崇拝すべきなのはエホバ神であり,この方だけに神聖な奉仕をしなければならない」。

イエスは答えた。「『あなたが崇拝すべきなのはエホバ神であり,この方だけに神聖な奉仕をしなければならない』と書いてあります」。
(ルカ 4:8)

多くの場合,忠誠の誓いや国歌には,ほかのどんなものよりも自分の国を高めたりたたえたりする言葉が含まれています。
それでエホバの証人は良心上,そのような愛国的な行いに加わらないようにしています。

また,国旗敬礼は崇拝の行為,つまり聖書が禁じている偶像崇拝に当たると考えています。

「ですから,愛する皆さん,偶像崇拝から逃げ去ってください」。
(コリント第一 10:14)

歴史家の中にも国旗を宗教的な象徴と見なす人たちがいます。歴史家のカールトン・J・H・ヘーズはこう述べています。
「国家主義の信仰の主要な象徴ならびに崇拝の中心的対象物は国旗である」。 
初期のクリスチャンについて,作家のダニエル・P・マニックスはこう書いています。「クリスチャンは[ローマ]皇帝の守護霊に犠牲をささげることを拒んだ。―それは,今日で言えば,国旗への敬礼……を拒むことに相当する行為である」。 

エホバの証人は国旗敬礼をしませんが,国旗を焼いたり破いたりするなど,国家を象徴するものを不敬に扱うことはしません。

・ 神は全ての人を平等に見ている。

『そこでペテロは話し始めた。「神が不公平ではないことがよく分かりました。神を畏れて正しいことを行う人はどの国の人でも神に受け入れられるのです」』。
(使徒 10:34,35)

聖書には,神は「1人の人から全ての国の人を造った」と書いてあります。

「そして,1人の人から全ての国の人を造って地上全体に住まわせ,さまざまな事柄の時を定め,人が住む所の限界を決めました」。
(使徒 17:26)

それでエホバの証人は,特定の民族や国をたたえるのは良くないと考えています。出身地や住んでいる国に関係なく,全ての人を敬います。

「あらゆる人を敬い,信仰で結ばれた兄弟たち全員を愛し,神を畏れ,王を敬ってください」。
(ペテロ第一 2:17)


 法律で参加が求められている場合はどうか

エホバの証人は政府に反対する立場を取っているわけではありません。聖書によると,政府は「神の取り決め」の一部であり,存在することを神が許しています。

「全ての人は上位の権威に従わなければなりません。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によって相対的な地位に据えられています。ですから,権威に反抗する人は,神の取り決めに逆らっていることになります。逆らう人は断罪されます。 支配者を恐れるのは,善いことを行う人ではなく,悪いことを行う人です。あなたは,権威を恐れずにいたいと思いますか。善いことを行い続けてください。そうすれば,権威者から称賛されます。 権威者は神の奉仕者であり,あなたのために働きます。しかし,もしあなたが悪いことを行っているのであれば,恐れるべきです。権威者は目的もなく剣を帯びているわけではないからです。神の奉仕者なのであり,悪いことを行い続ける人に憤りを表明する復讐者なのです。それで皆さんは,憤りを招かないためだけでなく,自分の良心のために,ぜひとも従わなければなりません。だからこそ,皆さんは税を納めることもしています。彼らは神の奉仕者であり,いつも公衆のために奉仕しているのです。 全ての者に,差し出すべきものを差し出してください。税を求める者に税を納め,支払いを求める者に支払いをし,恐れることを求める者を恐れ,敬意を求める者を敬うのです」。
(ローマ 13:1~7)

また,エホバの証人はクリスチャンが政府に従うべきであると考えています。

『イエスは言った。「ではぜひ,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」』。
(ルカ 20:25)

 
でも,法律で求められていることと聖書の教えが対立する場合はどうでしょうか。私たちの信条を認めてもらうために,法的な要請をすることもあります。

*下記へ「75年前に最高裁判例となった勇気ある良心上の立場」

それが認められない場合は,「人ではなく神に従」います。

『それに答えてペテロとほかの使徒たちは言った,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」』。
(使徒 5:29)


エホバの証人は社会的,政治的な主張をしているのか

いいえ,エホバの証人は社会的,政治的な問題に関わることはしません。国歌斉唱や国旗敬礼,忠誠の誓いをしないのは政治的な主張をするためではありません。聖書の教えに従いたいと思っているからです。

 

 

75年前に最高裁判例となった勇気ある良心上の立場

2018年6月14日
アメリカ合衆国


9歳のゲイシー・バーネットと8歳の妹マリー・バーネットは,クラスメートがアメリカの国旗に敬礼している間,敬意を示しつつ静かに立っていました。
自分たちの信仰ゆえの行動が,1943年の最高裁判所の画期的な判例で注目の的になるとは思いもしませんでした。
バーネット家の女の子たちは単に,神だけに忠誠の誓いをすべきだと信じていました。2人は大勢のエホバの証人の子どもたちと同様,クリスチャンとしての自分の良心に従っていました。

『ペテロとほかの使徒たちは答えた。「私たちは,人ではなく神に従わなければなりません」』。
(使徒 5:29)

ゲイシーとマリーは勇気を出して国旗敬礼を拒んだため,ウェスト・バージニア州のスリップ・ヒル小学校を放校されました。父親は訴訟を起こし,合衆国連邦最高裁判所にまで上訴して闘いました。1943年6月14日,最高裁判所は,学校側は子どもたちに強制的に国旗敬礼させることはできないとの判決を下し,エホバの証人の態度に「国旗と国に対して不敬なところ」はないことを特に述べました。
「ウェスト・バージニア州教育委員会 対 バーネット」事件の判決は,たった3年前の「マイナーズビル学区 対 ゴバイティス」事件の判決,つまり,子どもたちに敬礼を要求する権利を学校側に与える判決を覆すものとなりました。 

ロバート・ジャクソン判事は,6対3の多数意見として力強く判決を書きました。
次のような内容です。「わが国の憲法という星座に何らかの恒星があるとしたら,それは,位階の高低を問わずどんな公職にある者といえども,政治,国家主義,宗教,あるいは他の見解の問題において何が正統的かを定めたり,市民に対して彼らの信仰を言葉や行動によって告白するよう強要したりはできないということである」。
エホバの証人の子どもたちは直接この判決の恩恵を受けましたが,ノースウエスタン大学の法学の教授,アンドリュー・コッペルマン氏はこう述べています。
「市民の自由を大切に考える米国民は,悪意ある厳しい迫害に耐えながら市民の自由のために闘ったエホバの証人に大いに感謝するべきです。わたしたちは皆,今もその自由を享受しているのです」。

影響を受けたのは米国の法体系だけではありません。エホバの証人の法律顧問であるフィリップ・ブラムリーはこう説明しています。
「『バーネット』事件が与えた影響は,アルゼンチン,インド,カナダ,ガーナ,コスタリカ,フィリピン,ルワンダの最高裁判所,またヨーロッパ人権裁判所の判決にも及んでいます。それらの裁判所の判決で好意的に引用され,同じ理由づけが用いられているのです」。

2006年,ゲイシーとマリーは,2人がかかわった訴訟の重要性を討議するため,高名な学者たちと共にニューヨークにあるロバート・H・ジャクソン・センターに招かれました。
マリーは,「後の世代の子どもたちの役に立てて本当にうれしいです」と述べています。ゲイシーはこう加えています。「上の息子が,国旗に敬礼しなかったために校長室に行くように言われたのを思い出します。校長先生は戻ってきてこうおっしゃいました。『きみの先生は最高裁の判決を覚えてないんだね』」。

すべてのエホバの証人の気持ちを反映して,ゲイシーはこうコメントしています。
「わたしたちは国旗とそれが象徴するものに対して敬意を払っており,反感を抱いているわけではありません。ただ,崇拝や敬礼を良いこととは思わないだけです」。

「子供たち,偶像から身を守りなさい」。
(ヨハネ第一 5:21)