神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

愛は謙遜になるようわたしたちを助ける~ JW.ORG ~

2023年07月04日 | 日記

私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌,パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)

その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。

 

愛は謙遜になるようわたしたちを助ける


他の何にも勝って,無私の愛つまりアガペーは,謙遜になるようわたしたちを助けます。パウロがフィリピの人たちに説明したように,イエスがご自分の苦しみの杭の経験をそれほど謙遜な態度で耐え忍ぶことができたのは,なぜですか。

「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなた方のうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえ,むしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のような様になりました。それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました」。
(フィリピ・ピリピ 2:5~8)

イエスが神と同等であることを考えもしなかったのは,なぜですか。なぜなら,イエスご自身の言葉を借りれば,『わたしは父を愛している』からです。

「しかし,私が父を愛していることを世の人々が知るために,父が命じた通りにしています。立ちなさい。出掛けましょう」。
(ヨハネ 14:31)

そのようなわけで,イエスは常に天のみ父エホバに栄光と誉れを帰しました。そのため,イエスは別のときに,天のみ父だけが善良であられることを強調しました。

『ある議員がイエスに,「善い先生,何をしたら,永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ,私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」』。
(ルカ 18:18,19)


アメリカ初期の詩人の一人,ジョン・グリーンリーフ・ホイッテイアの生活に生じたある出来事は,その点を例証しています。
この人には幼馴染みの少女がいましたが,一度,つづり字競争をした時,少女はある単語を正しいつづりで書いたのに,彼は間違えました。少女はそのことでひどく心を痛めました。なぜでしょうか。その詩人は少女の言葉を次のように回想しています。「あの言葉をつづって書いたこと,後悔しています。あなたより上だなんて,いやです。……お気づきでしょうけれど,わたし,あなたを愛しているんですもの」。
そうです,もしだれかを愛しているなら,わたしたちはその人を自分の下ではなく,上に置くことを望むはずです。愛は謙遜だからです。

愛は「自慢せず,思い上がらず」とパウロは書きました。なぜでしょうか。自慢したり思い上がったりすることの背後には利己的で自己中心的な動機がありますが,愛は利他的な精神のまさしく真髄だからです。

「愛は辛抱強く,親切です。愛は嫉妬しません。愛は自慢せず,思い上がらず,」
(コリント第一 13:4)

 


ダビデとサウル王およびその子ヨナタンとの関係は,愛と謙遜さが,また誇りと利己心がどのように密接に関連しているかを示す顕著な実例です。
イスラエルの女たちはダビデが戦果を上げたため,「サウルは千を討ち倒し,ダビデは万を」と歌いました。
『女性たちは祝いながら,こう歌った。「サウルは何千もの敵を討ち,ダビデは何万もの敵を討った」』。
(サムエル第一 18:7)

サウルは謙遜さを全く欠き,むしろ誇りに心を奪われ,その時からダビデに対して殺意に満ちた憎しみを抱くようになりました。息子のヨナタンの精神とは何と大きな違いでしょう。
ヨナタンは自分の魂のようにダビデを愛した,と記されています。
「ダビデがサウルと話し終えた後,ヨナタンとダビデは固い友情で結ばれ,ヨナタンはダビデを自分自身のように愛するようになった」。
(サムエル第一 18:1)

では,事の成り行きから,神がダビデを祝福しておられ,ヨナタンではなくダビデがイスラエルの王としてサウルの後継者となることが明らかになった時,ヨナタンはねたみやそねみを感じたでしょうか。そのようなことは全くありませんでした。彼はダビデに対する深い愛のゆえに,サムエル第一 23章17節にある次のような言葉を語ることができました。
「恐れてはなりません。わたしの父サウルの手はあなたを見いだすことがないからです。あなたはイスラエルの王となり,わたしはあなたに次ぐ者となるのです。わたしの父サウルもまた,そうなることを知っているのです」。
(サムエル第一 23:17)

ヨナタンはダビデに対する深い愛に動かされ,自分の父親の後を継いでイスラエルの王となる者に関する神のご意志と思えた事柄を,謙虚に受け入れました。

 

愛と謙遜さの関係をさらに強調しているのは,イエス・キリストが死ぬ前に使徒たちと過ごされた最後の晩に生じた事柄です。ヨハネ 13章1節には,イエスは「それまでも世にあるご自分の者たちを愛してこられたのであるが,彼らを最後まで愛された」
とあり,その後イエスは使徒たちの足を洗い,卑しい僕のように振る舞われたと記されています。謙遜さに関する何と強力な教訓なのでしょう。
『イエスは,過ぎ越しの祭りの前に,自分がこの世を去って天の父のもとに行くべき時が来たことを知った。そして,世にいて自分に従う人たちを,それまでも愛してきたが,最後まで愛した。 食事が進んでいたが,悪魔はすでに,シモンの子ユダ・イスカリオテにイエスを裏切る考えを抱かせていた。 イエスは,父が全てのものを与えてくださったことと,自分が神のもとから来て神のもとに行こうとしていることを知っていて, 食事の席から立ち,外衣を脇に置いて,拭き布を取って腰にくくった。それから,たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い,腰にくくった布で拭き始めた。こうしてシモン・ペテロの所に来た。ペテロは,「主よ,あなたが私の足を洗うのですか」と言った。 イエスは答えた。「あなたは私がしていることを今は理解していませんが,後になれば理解できます」。ペテロは言った。「足を洗っていただくことなどできません」。イエスは答えた。「私が洗わないとしたら,あなたは私の仲間ではありません」。 シモン・ペテロは,「主よ,足だけでなく,手も頭もお願いします」と言った。 イエスは言った。「体を洗った人は全身が清く,足以外は洗う必要がありません。あなたたちは清いのです。しかし全員ではありません」。 イエスは,自分を裏切ろうとしている者を知っていたので,「全員が清いのではない」と言ったのである』。
(ヨハネ 13:1~11)


確かに,謙遜であるべき理由はたくさんあります。謙遜であるのは正しいことであり,正直なことです。それは信仰の道です。

神および仲間の信者との良い関係に貢献します。それは知恵の道です。何よりもそれは愛の道であり,真の幸福をもたらします。