私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌,パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました
(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。
*私が用いる聖句は,新世界訳,新共同訳,新改訳,口語訳,回復訳(新約聖書のみ)
「神の名に対する戦い」
その人の名はハナニヤ・ベン・テラディオン。
西暦2世紀のユダヤ人の学者で,公開の集まりを開いて,聖書の最初の五つの書を収めた巻き物セーフェル・トーラーから教えることで知られていました。
ベン・テラディオンは,神の固有の名を用い,それを人々に教えることでも知られていました。
聖書の最初の五つの書に神の名が1,800回余り出てくることを考えると,神の名について教えずにトーラーを教えることなど,どうしてできたでしょうか。
しかし,ベン・テラディオンが生きたのは,ユダヤ人の学者たちにとって危険な時代でした。
ユダヤ人の歴史家によると,ローマ皇帝はユダヤ教の布教やそれを固く守ることを死罪に値する違法行為と定めていました。結局,ベン・テラディオンはローマ人に捕らえられました。
そのとき彼はセーフェル・トーラーを所持していました。
ベン・テラディオンは自分を訴えた人々に対して,自分は聖書を教えることにより神の命令に従っているにすぎないとありのままに認めましたが,死刑を宣告されました。
処刑の当日,ベン・テラディオンは捕縛されたときに所持していた聖書の巻き物を体に巻きつけられ,火あぶりにされました。ユダヤ大百科事典(英語)によると,
「苦しみを長引かせるため,水を含ませた羊毛の房が彼の心臓の上に置かれ,すぐに息を引き取らないようにされ」ました。刑罰の一環として妻も処刑され,娘は売春宿に売られました。
ベン・テラディオンに対するこの残忍な処刑の責任はローマ人にあったとはいえ,
「彼が火刑に処されたのは,み名をすべてつづりどおりに発音したためだ」とタルムード*は述べています。
神の固有の名を口にすることは,ユダヤ人にとってまさに重大な違犯とされたのです。
「第三のおきて」
神の名の使用に関する迷信は,ユダヤ人の間で西暦一,二世紀に確立されたようです。
ミシュナ(ラビの注解を集大成したもので,タルムードの基礎になった)
では,「神名をつづりどおりに発音する者」は神の約束された将来の地上のパラダイスに何の分も持たない,とされました。
そのような禁制はどこから出たのでしょうか。
一説によると,ユダヤ人は神の名前はあまりに神聖であるため不完全な人間は発音してはならないと考えました。
やがて,この名を書くことさえ,ためらうようになりました。
ある資料によると,そうした恐れは,神の名の書かれた文書がついにはごみとして捨てられ,神の名が冒とくされる結果にならないかという心配から生じました。
ユダヤ大百科事典はこう述べています。
「YHWHという名を口にするのを避けた……理由は,第三のおきて……を誤解したことにある」。
神がイスラエル人に与えた十のおきての三番目は次のようなものです。
「あなたの神(ヤハウェ,エホバ,YHWH)の名をいたずらに取り上げてはならない。その名をいたずらに取り上げる者を 神(ヤハウェ,エホバ,YHWH)は処罰せずにはおかないからである」。
(出エジプト記 20:7)
神の名のふさわしくない用い方を禁じるこの命令が曲解され,迷信的な考えが生まれました。
今日,神がご自分の名を口にする人を火あぶりにするなどと言う人はいません。
しかし,神の固有の名に関するユダヤ人の迷信は依然として残っています。
テトラグラマトンについて,「口にするのもおそれ多い名」とか,「口にすべからざる名」などと言う人は
今でも少なくありません。ある社会では,その伝統を破らないよう,神について述べるときはいつも故意に誤った発音をしています。
例えば,神の固有名の省略形であるヤーもしくはヤハはカーと発音され,ハレルヤはハレルカと発音されます。
「神」の語を書くことさえしないように,その語を構成する文字をダッシュで置き換える人もいます。
例えば,英語で“God”と書くとき,実際には“G-d”とつづるのです。
「神のみ名を隠す企ては続く」
神の名を用いようとしないのは,ユダヤ教だけではありません。
カトリックの僧職者で,教皇ダマスス1世の秘書だったヒエロニムスについて考えてみましょう。
ヒエロニムスは西暦405年に聖書全巻のラテン語への翻訳を終え,その聖書はラテン語「ウルガタ訳」
として知られるようになりました。ヒエロニムスはその訳に神の名を載せませんでした。
当時の慣習に倣って,神の名の代わりに「主」や「神」といった語を用いました。
ラテン語「ウルガタ訳」はカトリックの最初の公認翻訳聖書となり,この訳を基にして,他の幾つもの言語への翻訳がなされました。
例えば,1610年のカトリックの翻訳である「ドウェー訳」は,いわばラテン語「ウルガタ訳」の英訳版でした。
ですから,この聖書に神の固有の名が全く出ていないのも驚くには当たりません。
もっとも「ドウェー訳」は,単に数ある翻訳の一つではありませんでした。
1940年代まで,英語圏のカトリック教徒にとって唯一の公認聖書だったのです。
神のお名前は何百年もの間,非常に多くの敬虔なカトリック教徒から隠されてしまいました。
「ジェームズ王欽定訳」についても考えましょう。
1604年に英国国王ジェームズ1世は学者の一団に,英訳聖書の作成を命じました。
7年ほど後,「欽定訳聖書」としても知られる「ジェームズ王欽定訳」が発行されました。
この訳の翻訳者たちも神の名を避け,幾つかの節でしか用いませんでした。
神の名はほとんどの箇所で,テトラグラマトンを表わす“LORD”(主)や“GOD”(神)という語に置き換えられました。
この訳は非常に多くの人にとって標準聖書となりました。
ワールドブック百科事典(英語)はこう述べています。
「『ジェームズ王欽定訳』の出版から200年余りのあいだ重要な英訳聖書は現われなかった。
その間,『ジェームズ王欽定訳』は英語圏で最も広く用いられる訳であった」。
神の名を削除または軽視する翻訳聖書は過去何世紀もの間に数多く出版されており,先に挙げたのはそのうちの三つの例にすぎません。
今日,クリスチャンと公言する人の大多数が,神の名を用いるのをためらったり全く知らなかったりするのも,意外なことではありません。
もちろん,長年,一部の聖書翻訳者は神の固有の名を訳本に載せてきました。
しかし,その多くは比較的近代に出版されたもので,神の名に対する一般の人々の見方に大きく影響するものとはなっていません。
「神のご意志に反する習わし」
神の名を用いようとしない,この広く見られる傾向は,人間の伝統に固く基づいたもので,聖書の教えに基づくものではありません。
「神名を発音することを禁じる言葉はトーラーにはない。事実,神名がごく日常的に発音されたことは聖句から明らかである」
と,ユダヤ人の研究者で,Judaism<ジュダイズム> 101というインターネットサイトの作成者であるトレーシー・R・リッチは述べています。
そうです,聖書時代に神の崇拝者たちはみ名を用いました。
確かに,神の名を知ってそれを用いるなら,是認された崇拝の方法に,つまり聖書時代に神を崇拝した方法に近づくことになります。
これは神との個人的な関係を築く最初のステップとなります。その関係を築くことは,単に神の名前は何かを知ることよりはるかに大切です。
実際のところ,エホバ神はご自分とのそのような関係を持つようにと招いておられます。霊感による次の温かな招きを差し伸べておられるのです。
「神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます」。(ヤコブ 4:8)
しかし,『どうすれば死すべき人間が全能の神とのそのような親密さを享受できるのだろうか』と思われるかもしれません。
「ハレルヤ」
「ハ レルヤ」という言葉を聞くと何が思い出されるでしょうか。おそらく,ヘンデルの「メサイア」でしょう。これは1700年代の音楽の傑作で,
迫力あるハレル ヤ・コーラスが特徴です。あるいは,「グローリー,ハレルヤ」としても知られる,アメリカの有名な愛国的唱歌「リパブリック賛歌」
について考えるかもしれ ません。いずれにしても,きっとどこかで「ハレルヤ」という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。それを口にすることもおありかもしれません。
では, その意味をご存じでしょうか。
ハレルヤ ― 「ヤハを賛美せよ」,または「あなた方はヤハを賛美せよ」という意味のヘブライ語「ハレルー・ヤーハ」を英語に音訳したもの。
ヤハ ― 神の名エホバの詩的短縮形。聖書に50回以上見られ,多くの場合,「ハレルヤ」という表現の一部として出てきます。
よく知られている「ニュー・リビング訳」(英語)の2004年版の序文に,「神の名の訳」という見出しのもと次のような説明が載せられました。
「本書ではおおむね,テトラグラマトン(YHWH)を,英訳本によく見られる小型の大文字を用い,一貫して‘the LORD’[主]と訳している。
それにより,‘Lord’と訳されるアドーナーイという名称と区別できる」。次いで,新約聖書部分についてこう述べています。
「ギリシャ語キュリオスは,一貫して‘Lord’と訳している。ただし,新約が明らかに旧約を引用している箇所では,小型の大文字を用いて‘LORD’と訳している」。
ですから,この聖書の翻訳者たちは,テトラグラマトン (YHWH)を新約聖書中のそれら引用箇所でも示すべきである,と認めているのです。
興味深いことに,「アンカー聖書辞典」(英語)には,「新約におけるテトラグラマトン」という見出しのもとに,こう記されています。
「新約が書かれた当初,旧約からの引用箇所の一部もしくは全部に,テトラグラマトンつまり神の名ヤハウェが出ていた,と言える証拠がある」。
また,ジョージ・ハワードという学者も次のように述べています。
「初期教会の聖書はギリシャ語聖書[セプトゥアギンタ訳]の写本であるが,その中になお四文字語<テトラグラマトン>が書かれていた以上,
新約の筆者が聖書から引用するとき,聖書本文中に四文字語<テトラグラマトン>を保存したことは当然に考えられる」。
聖書中の多くの人物のヘブライ語名には,神の固有の名が含まれています。そのような名前と意味を幾つか挙げましょう。
エホシェバ (Jehosheba)[エホバは豊穣]
エホヤダ(Jehoiada)[エホバが知ってくださるように]
エホラム(Jehoram)[エホバは高い(高められる)]この名前の短縮形はヨラムです。
エホシャファト(Jehoshaphat)[エホバは裁き主]
エホアハズ(Jehoahaz)[エホバがとらえてくださるように; エホバはとらえてくださった]
ヨシュア(Joshua)[「エホバは救い」を意味するエホシュアの短縮形]
エホシュア(Jehoshua)[エホバは救い]
エホシュア(Jehoshua)[エホバは救い]
ヒゼキヤ(Hezekiah)[エホバは強めてくださる]
ヨシヤ(Josiah)[もしアラビア語の語根と関連があるなら,「エホバがいやしてくださるように; エホバはいやしてくださった」]
ダビデ(David)[「愛する者」]
ソロモン(Solomon)[「平和・サレム(Salem)」を意味する語根に由来] エディデヤという名(「ヤハの愛する者」)
ダニエル(Daniel)[わたしの裁き主は神]
エゼキエルEzekiel)[神は強めてくださる]
イシュマエル(Ishmael)[神は聴いてくださる]
イスラエル(Israel)[「神と闘う(神に対してねばり強い)者」または「神は闘う」]
ヤコブがおよそ97歳の時,神がヤコブにお与えになった名前。
ヤコブは自分の兄弟エサウに会いに行く途中でヤボクの奔流の谷を渡った夜,何者かと組み打ち(相撲のようなもの)を始めました。
その者はみ使い(天使)であることが分かりました。ヤコブが組み打ちにおいて粘り強かったので、神の祝福としてもらった。
イサクIsaac)[笑い]
ヤコブ(Jacob)[かかとをとらえる者; 押しのける者]
アブラハム(Abraham)[群衆(多数のもの)の父]
サラ(Sarah)[王妃] サライ[恐らく,「争いを好む」]
マリア(Mary)[ヘブライ語ミリアムに由来。恐らく,「反逆の」を意味する]
ミリアム(Miriam)[恐らく,「反逆の」]
ミリアム(Miriam)[恐らく,「反逆の」]
エドム(Edom)[赤い]
エサウ(Esau)[毛深い]
ノア(Noah)[休息; 慰め]
アダム(Adam)[「地の人; 人類; 人間」]
エバ(Eve)[「生ける者」。「生きる」]
エルサレム(Jerusalem)[二重の平和の都市(土台)]
エル(平和の都市(土台))サレム(平和)
ペニエル(ペヌエル)(Peniel)
ヤコブがみ使いと組み打ちをしたヤボクの渡り場の近くにあった場所。
ヤコブは,そこで「顔と顔を合わせて神を見た」
「ヤハ」は「エホバ」の省略形。
神の名はいろいろな所にはっきり示されている
1. 教会,デンマークのロンボー,17世紀
2. ステンドグラスの窓,ベルンの大聖堂,スイス
3. 初期のヘブライ語文字で記されている死海文書,イスラエル,西暦30年ごろから50年
4. スウェーデンの硬貨,1600年
5. ドイツ語の祈とう書,1770年
6. 石碑,ドイツのバイエルン州
7. モアブ碑石,フランスのパリ,西暦前830年
8. 教会の丸天井の絵,スイスのオルテン
「神には名前があります!」
神の名は何でしょうか。人にはみな自分の名前があります。
多くの人はペットにさえ名前を付けます。神も名前を持たれるのではないでしょうか。
人にはそれぞれ名前があり,それを用いることは,人間関係や相互の交流に欠かせません。
その点は明らかです。神との関係については異なるのでしょうか。
意外なことに,聖書の神を信じていると言う多くの人が神の固有の名を用いていません。
とはいえ,神の名はこれまで幾千年ものあいだ知られてきました。この一連の記事をお読みになれば,
神の名が広く用いられた時代について知ることができます。
さらに重要な点として,神を名前で知ることについて聖書が何と述べているかも知ってください。
ヨーロッパの幾つかの国では17世紀に,神の名を刻んだ硬貨が造られていました。
1634年に造られたドイツの硬貨には,エホバ(IEHOVA)という名がはっきりと刻まれていました。
そのような硬貨は,“エホバ・ターレル”つまりエホバ硬貨として広く知られるようになり,何十年ものあいだ流通しました。
エホバ(Jehovah) は,神の名の表わし方の一つとして幾世紀ものあいだ認められてきた形です。
ヘブライ語は右から左に読み,神の名はという四つの子音字で記されます。
ヘブライ語のこの四文字は,ローマ字ではYHWHと翻字され,テトラグラマトンとして知られています。
この形の神の名も何十年もの間,ヨーロッパの幾つかの硬貨に刻まれていました。
神の名前は,建物,記念碑,芸術作品にも見られ,また多くの賛美歌にも見られます。
ドイツのブロックハウス百科事典によると,プロテスタントの君主たちはある時期に,様式化された太陽
とテトラグラマトンとを組み合わせた記章を付けるのが習慣となっていました。
旗や硬貨にも用いられたその種のシンボルは,「エホバと太陽」の紋章として知られました。
明らかに,17,18世紀の信仰心の厚いヨーロッパ人は,全能の神にお名前のあることを知っていました。
さらに意味深いこととして,その人々は神の名を用いることを恐れたりはしませんでした。
植民地時代のアメリカでも,神の名になぞめいたものはありませんでした。アメリカ独立革命時
の軍人イーサン・アレンはその一例です。本人の記憶によれば,1775年にアレンは敵軍に対し,
「偉大なるエホバの名において」降伏するよう要求しました。
後年,アブラハム・リンカーンの大統領在任中,幾人かの顧問はリンカーン宛ての手紙の中でたびたび
エホバの名に言及しています。アメリカの他の歴史文書にもこの神の名は載せられており,
そうした文書は多くの図書館で一般の人も閲覧できます。
これらは,神の名が幾世紀もの間はっきり表示されてきたことを示す幾つかの例です。
今日ではどうでしょうか。神のお名前は忘れられてしまったでしょうか。そのようなことはありません。
多くの言語の様々な聖書翻訳は幾つもの箇所に神の固有の名をとどめています。だれでも図書館に少し立ち寄るか,
手近な辞書類を少し調べるだけで,エホバという名がテトラグラマトンを表わす一つの形として
一般に受け入れられていることが分かるでしょう。
一例として,インターナショナル百科事典(英語)はエホバ(Jehovah)という名を,
「ヘブライ語による神の神聖な名の,現代の形」と定義しています。新ブリタニカ百科事典(英語)
の最近の版は,エホバが「ユダヤ教とキリスト教の神の名」であると説明しています。
『でも,今日,人々は神の名前を気に留めているだろうか』と思われるかもしれません。
神のお名前は今でも公共の場所にいろいろな形で見られます。例えば,エホバの名は,ニューヨーク市
のある建物の隅石に刻まれています。同市の混雑する地下鉄のある駅を飾る色彩豊かなモザイクにも,
神の名がヘブライ語で記されています。とはいえ,そばを通る大勢の人で,そのように書き込まれた文字
に大切な意味があると考える人はほとんどいない,と言えるでしょう。
お住まいの地域で,神のこの名前は人々にとって重要な意味を持っているでしょうか。
それとも,たいていの人は創造者をただ「神」と呼び,この称号が実際の名前であるかのように見ているでしょうか。
神に名前があるかどうかなど全く考えない人が多い,と感じておられるかもしれません。あなたご自身はいかがでしょうか。
エホバという固有の名を用いてためらいなく神に語りかけるでしょうか。
「神の名の排除を目指すバチカンの動き」
カトリックの高位聖職者たちは,教会での礼拝における神の名の排除を目指しています。
昨年,バチカンの典礼秘跡省はこの点に関する手紙を全世界のカトリック司教協議会に送りました。
それは法王の「指示による」とされています。
2008年6月29日付のその手紙は強い不快感を表わし,これまでの指針にもかかわらず
「近年,ヘブライ語アルファベットの四つの子音字יהוה,YHWH,で書き表わされる神聖四字として知られる
イスラエルの神の固有の名を発音する習慣が入り込んできている」と述べています。
そして,神の名が「Yahweh<ヤーウェ>」,「Yahwè<ヤウェー>」,「Jahweh<ジャーウェ>」,
「Jahwè<ジャウェー>」,「Jave<ジャーベ>」,「Yehovah<イェホーバ>」などと様々に訳されていることに触れています。
このバチカンの指示は,カトリックの伝統的見解の再確立を目指すものです。
神聖四字(テトラグラマトン)を「主」に置き換えるべきである,という見解です。
さらに,カトリックの典礼や聖歌や祈りの中で神の名「YHWHを用いたり,発音したりしてはならない」としています。
この見解を支持するものとして,今回のバチカンの手紙はカトリックの「はるか昔からの伝統」を引き合いに出し,
キリスト以前のセプトゥアギンタ訳ヘブライ語聖書でも神の名は規則的にキュリオス(「主」を意味するギリシャ語)
と訳されている,と述べています。そして,「キリスト者も初めから神聖四字を決して発音しなかった」と唱えています。
しかし,この主張は明確な証拠を無視しています。セプトゥアギンタ訳の初期の写本には,キュリオスではなく,יהוהという形の神の名が含まれています。
1世紀のキリストの追随者たちは神の名を知っており,発音していました。イエスご自身も,父に向かって,
「わたしは[あなたの]み名を彼らに知らせました」と祈られました。(ヨハネ 17:26)
そして,模範的な祈りとして,こう祈るよう教えておられます。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」。
マタイ 6:9。
クリスチャンは皆,神の名が神聖なものとされることを願うはずです。神の名の排除を目指すバチカンの姿勢はそれとは正反対のものです。
神(YHWH,エホバ,ヤハウェ)はこう述べておられます。
「これは永遠にわたしの名である。この名によってわたしは代々限りなく呼び求められることになる」。
出エジプト記 3:15
【クリック】
2016-01-06の追記