逃げるのが賢明なとき
今日の世界によく見られる特徴に,強がって対立する精神や誘惑があります。
ある状況から逃げる人は一般に,弱虫または臆病者に見られます。
嘲笑されることさえあるかもしれません。
しかし,聖書が明らかにしているとおり,逃げるのが賢明で勇気の表われである場合もあります。
そのことを裏付ける点として,イエス・キリストはご自分の弟子たちを宣教に遣わす前,こう言われました。
「人々がある都市であなた方を迫害するときには,別の都市に逃げなさい」。
(マタイ 10:23)
そうです,イエスの弟子たちは迫害者から逃げる必要がありました。
十字軍のように,力ずくで他の人を改宗させようとしてはなりませんでした。
彼らが携えていたのは平和の音信でした。
「町や村に入ったら,そこで,ふさわしい人はだれかをよく調べ,旅立つときまで,その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら,『平和があるように』と挨拶しなさい。
家の人々がそれを受けるにふさわしければ,あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし,ふさわしくなければ,その平和はあなたがたに返ってくる。
あなたがたを迎え入れもせず,あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら,その家や町を出て行くとき,足の埃を払い落としなさい」。
(マタイ10:11~14)
ですから,クリスチャンは怒るのではなく,逃げる,つまり怒りの原因となるものから離れる必要がありました。
そのようにして,クリスチャンは正しい良心,そして神(ヤハウェ,エホバ)との貴重な関係を保ちました。
「それゆえ,われらは神にあわれまれてこの務めを持つので,心を落とさず,恥ずべき隠しごとを捨て,悪巧みに歩まず,神のことばを曲げず,真理の明らかさによって,神のみ前に自らをすべての人の良心に対して推薦しています」。
(コリント第二 4:1,2)
それとは対照的な例が,聖書の「箴言」の書に記されています。
その中に登場する一人の若者は,誘惑に直面したとき逃げるのではなく,「ほふり場に向かう雄牛のように」売春婦について行きました。
どうなりましたか。その若者は,自分の命にかかわる誘惑に屈したため災いに遭いました。
『それは,よその女から,自分のことばを滑らかにした異国の女から,あなたを守るためである。わたしは自分の家の窓から,その格子から見下ろした。経験のない者たちをよく見ようとしてであった。わたしは子らの中に心の欠けた若者がいるかどうかを知ることに関心があったからである。その者は彼女の角に近い街路を過ぎて,その女の家に通じる道を進む」。「女はその豊かな説得力によって彼を惑わした。滑らかな唇によって彼をたぶらかす。突然,彼はその女について行く。ほふり場に向かう雄牛のように。愚かな者の懲らしめのために足かせを掛けられたかのように。そして,ついには矢が彼の肝臓を切り裂くのである。鳥がわなにとび込むように。しかも,彼はそれが自分の魂にかかわることであるのを知らないでいる」』。
(箴言7:5~8,21~23)
性の不道徳を犯させようとする誘惑や他の潜在的な危険に直面したら,あなたはどうしますか。
神のみ言葉によれば,そのような状況から逃げる,すなわちその場をただちに離れるのが最善と言えます。
「悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」。
(箴言4:14,15)
逃げ出すのは臆病とみなされることもありますが,たいていの場合,ある状況から物理的に離れるのは賢明な方法です。
もしかしたら,職場で繰り返し誘惑を受けているかもしれません。
転職は無理かもしれませんが,誘惑となる状況から離れる方法は,ほかにあるでしょう。
何であれ,よくないと分かっているものから逃れる必要がありますし,正しいことだけを行なう決意を抱くべきです。
「悪を憎み,善を愛せよ。また,町の門で正義を貫け。あるいは,万軍の神なる主が,ヨセフの残りの者を,憐れんでくださることもあろう」。
(アモス5:15)
これ以外にも,誘惑から逃れるには,インターネット上のポルノのサイトや,好ましくない娯楽施設を避ける必要があるでしょう。
また,雑誌を捨て,新しい仲間たちを見いだす,つまり,わたしたちの力になれる,神を愛する人々を友とするのも一つの方法かもしれません。
「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」。
(箴言13:20)
自分を罪にいざなうものは,何であれ,断固として退けるのが賢明です。
「愛に偽りがないように。悪を忌みきらい,善にはしっかりくっついておれ」。
(ローマ12:9)