「神とイエスのために生きる」
すなわち、わたしたちのうちだれも、自分自身に生きる者はなく、自分自身に死ぬ者はいないのです。
わたしたちは生きるにしても、主(神)に生きるのであり、死ぬにしても、主(神)に死ぬのです。
こういうわけで、わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、主(神)のものです。
聖書(ローマ 14:7.8)
私たちは誰一人、自分のためだけに生きるのではありません。
また、自分のためだけに死ぬのでもありません。生きるのなら神(エホバ、ヤハウェ)のために生き、
死ぬのなら神(エホバ、ヤハウェ)のために死ぬのです。生きるにしても死ぬにしても、私たちは神(エホバ、ヤハウェ)のものです。
(ローマ 14:7.8)
事実、わたしたちはだれ一人、ただ自分に関してのみ生きるのではありません。
また、だれ一人、ただ自分に関してのみ死ぬのでもありません。わたしたちは、生きるなら神(エホバ、ヤハウェ)に対して生き、
死ぬなら神(エホバ、ヤハウェ)に対して死ぬからです。それゆえ、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは神(エホバ、ヤハウェ)のものです。
(ローマ 14:7.8)
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
わたしたちは、生きるとすれば主(神)のために生き、死ぬとすれば主(神)のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主(神)のものです。
(ローマ 14:7.8)
キリストの愛が私たちを駆り立てるのです。私たちは次のように考えているからです。
1人の人が全ての人のために死にました。ということは、全ての人は死んでいたのです。
その方が全ての人のために死んだのですから、生きている人たちはもはや自分のために生きるのではなく、
自分のために死んで生き返らされた方のために生きるべきです。
(コリント第二 5:14.15)
キリストの持たれる愛がわたしたちに迫るのです。わたしたちはこのように判断しているからです。
つまり、一人の人がすべての人のために死んだ、だからすべての人は死んでいたのである、
そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者たちがもはや自分のために生きず、
自分たちのために死んでよみがえらされた方のために生きるためである、と。
(コリント第二 5:14.15)
なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。
すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、
自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
(コリント第二 5:14.15)
なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからです.そこでこう判断しました。
一人の方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。
そして、彼がすべてのために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、
彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです。
(コリント第二 5:14.15)