SHOE DOG(シュードッグ) ―靴にすべてを。―
フィル・ナイト (著), 大田黒 奉之 (翻訳)
出版社: 東洋経済新報社 (2017/10/27)
世界的なブランドが、一気に身近に感じられた。ナイキ創業の背景に、日本との深い縁があったことが明かされているからだ。また、余談だがナイト氏がバックパッカーだったことも親近感を抱いた大きな要因であろう。冒頭の数ページだけだったが、氏のバックパッカー体験はオレがバックパッカーだった頃の記憶を鮮明に呼び覚ましてくれ何かがシンクロした。
まず1点目の日本との深い縁。それは、ナイトが起業したのは、日本製スニーカー「オニツカタイガー」をアメリカで売るためだったことだ。日本で作られた靴をアメリカで売る。1960年代に米国の誰もが笑うような夢を抱き、著者は日本に渡る。
1962年、まだ24歳の青年だったナイトは、ナイキの前身となるブルーリボン社を起業。当時スニーカーはまだ一般的ではなく、アスリートだけが履く靴だった中で、いつか皆が日常的にスニーカーを履くようになると信じていた。前半は、ハッタリだけでアメリカでの独占販売権を獲得したり、資金繰りが無計画だったり。ナイトの無鉄砲さや泥臭い面に目が離せない。
2点目の日本との深い関わりは、ブルーリボン社の危機を救ったのが、日本の商社「日商岩井(現・双日)だったことだ。オニツカとの激しい裁判を経て、銀行にそっぽをむかれたブルーリボン社。自社ブランドシューズ「ナイキ」の製造を諦めずに済んだのは、日商岩井のおかげだ。後半は、オニツカの代理店から離れ、社名をナイキに変更し、1980年に株式上場を果たすまでの展開が描かれる。
書名の「SHOE DOG/シュードッグ」とは、靴にすべてを捧げる人間のことを指すそうだが、この540ページにも及ぶ大作には、靴に情熱を注いだナイトの起業から上場までの18年間がまとめられている。
「世界は馬鹿げたアイディアでできている。歴史は馬鹿げたアイディアの連続」
なるほどね…。非常に深い言葉だ。
ちなみにオレが初めて「ナイキ」というシューズブランドを認識したのは1985年公開の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見た時(実際に鑑賞したのは公開されてからだいぶ後だったが)
オレが初めて「ナイキ」に憧れを抱いたのは1995年に野茂英雄さんがLADに移籍してから(近鉄時代のスパイクはミズノだったが、LAD移籍後はナイキに変更)
フィル・ナイト (著), 大田黒 奉之 (翻訳)
出版社: 東洋経済新報社 (2017/10/27)
世界的なブランドが、一気に身近に感じられた。ナイキ創業の背景に、日本との深い縁があったことが明かされているからだ。また、余談だがナイト氏がバックパッカーだったことも親近感を抱いた大きな要因であろう。冒頭の数ページだけだったが、氏のバックパッカー体験はオレがバックパッカーだった頃の記憶を鮮明に呼び覚ましてくれ何かがシンクロした。
まず1点目の日本との深い縁。それは、ナイトが起業したのは、日本製スニーカー「オニツカタイガー」をアメリカで売るためだったことだ。日本で作られた靴をアメリカで売る。1960年代に米国の誰もが笑うような夢を抱き、著者は日本に渡る。
1962年、まだ24歳の青年だったナイトは、ナイキの前身となるブルーリボン社を起業。当時スニーカーはまだ一般的ではなく、アスリートだけが履く靴だった中で、いつか皆が日常的にスニーカーを履くようになると信じていた。前半は、ハッタリだけでアメリカでの独占販売権を獲得したり、資金繰りが無計画だったり。ナイトの無鉄砲さや泥臭い面に目が離せない。
2点目の日本との深い関わりは、ブルーリボン社の危機を救ったのが、日本の商社「日商岩井(現・双日)だったことだ。オニツカとの激しい裁判を経て、銀行にそっぽをむかれたブルーリボン社。自社ブランドシューズ「ナイキ」の製造を諦めずに済んだのは、日商岩井のおかげだ。後半は、オニツカの代理店から離れ、社名をナイキに変更し、1980年に株式上場を果たすまでの展開が描かれる。
書名の「SHOE DOG/シュードッグ」とは、靴にすべてを捧げる人間のことを指すそうだが、この540ページにも及ぶ大作には、靴に情熱を注いだナイトの起業から上場までの18年間がまとめられている。
「世界は馬鹿げたアイディアでできている。歴史は馬鹿げたアイディアの連続」
なるほどね…。非常に深い言葉だ。
ちなみにオレが初めて「ナイキ」というシューズブランドを認識したのは1985年公開の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見た時(実際に鑑賞したのは公開されてからだいぶ後だったが)
オレが初めて「ナイキ」に憧れを抱いたのは1995年に野茂英雄さんがLADに移籍してから(近鉄時代のスパイクはミズノだったが、LAD移籍後はナイキに変更)