幸せの尺度って人それぞれだと思うんですよ。
はたから見たら、幸せって言える条件をすべてみたしている環境にある人だって、
その内情がどうであるかなんて本人にしか知り得ないことだし、
その環境を幸せと思うかはその人次第であるわけで、
逆もまた然るわけで。
だから、
片親だからあの子は可哀想だよね、って決めつけるのも間違ってるし、
お金があるからあの人は幸せだね、と言い切るのも難しい。
だってその人の事情なんてその人しかわかんないし、
何を以って幸せと言うか、不幸せと言うかも人によって違うもん。
ただ、
そう言っといて矛盾するようだけど、
何でもかんでも
不幸を美化する文化というのはそれもまたどうかと思う。
「あの辛い経験があったからこそ、いまの自分がいる」
「しんどかったけど、あの時のあの経験がなければ、今頃自分はここにいなかった」
とか、過去を振り返って考えることってわたし自身多いんだけど、
かと言って、
本当にこの世の出来事全てに意味があるか
(地球にとって、世界にとって、とかいう大きな規模でなく、自分にとってという個人規模で考えた時)
って考えると、一概にそうだとは言えないと思う。
ここから先、
ものすごく歪んだ意見なので
真剣に読んでる人がいたらすっごく申し訳ないのだけど
たとえば、
「不治の病にかかって、一時は絶望のあまり自暴自棄になったけど、病気のお陰で限りある命の尊さに気づけたし、周りのひとの大切さに気づけた!」
って主張する人がいたら、
そこまで前向きにとらえられるのってすごいな、ってわたしは尊敬はすると思うんだけど、
じゃあもし過去に遡って、「病気に罹る人生、罹らない人生」を自分で選択できるとしたら
わざわざ病気に罹る道を選ぶ人なんてまずいないと思うんだよね。
病気になったのは辛かったけど、お陰で命の尊さに気づけた、
とか
事故で母親を亡くしたのは悲しかったけど、残りの家族とお互い支え合った分絆が一層強くなった、
とか
じゃあ命の尊さに気づくために、病気になったほうがよかった?
家族の絆を強めるために、わざわざ事故で母親を亡くしたかった?
って聞いて、うんって答える人なんていないだろうと。
こんなゆがんだ例を通して何が言いたいかというと、
特に日本人にありがちなように思える、障害者、障害というものに対して過剰反応する感じ?に疑問を感じたんですよね(´`)
いまの時期、24時間テレビだかなんだかで毎年お涙頂戴的な企画をやるじゃないですか、
それを企画するスタッフも、
真剣に見て泣くひとも、なんだかなー。
とおもうのです。
障害者というものに対してみんなめちゃくちゃ敏感だから、
少しでも障害者のひとに対して目立つ発言があれば、
何かと差別だ差別だってうるさいじゃん。
差別と区別は違うのになあ…と
何度思ったことか。
障害者のひとに的を当てたドキュメンタリーとか番組の企画とかで、
「障害があるのにあんなに頑張ってる!」
「障害を物ともせず努力する姿に感動しました」
とか言って涙を流してる視聴者って、
結局障害者のひとに対して同情してるから泣くわけじゃん。
自分より能力が下だと思ってるから、彼らが何か偉業を成し遂げたとき、普通以上に驚いて泣くわけじゃん。
それこそ差別なんじゃね?
とわたしはおもう。
例えば、
耳が聞こえないひとを目の前にして、どーしよう、どうやって助けてあげよう?
っておろおろするひとはいても、
ちょっと風邪ひいちゃって、喉潰したから喋りたいのに声がでませんってひとを目の前にしておろおろするひとはあんまいないと思うのね。
「こ、この人は自分とは違うんだ!どうしよう、どう対応したらいいかな?!」
なんていちいち考えないし、
「声が出ないなんて、何て不幸なの?可哀想!」
とも考えないし、
「あ、いま喋れないの?喋ると辛いなら筆談にする?」
とか言うくらいじゃない?
みんなと感覚が違うかもしれないけど、
わたしにとって障害者のひとってそんなレベル。
障害があるからって別に過度に同情もしないし、気も遣わず、
ただ「あ、耳が聞こえないのか、そしたらこれならわかりやすいかな?伝わるかな?」って考えるし、
相手が障害ゆえになにか困ってたり不自由そうなら、出来ることならわたし手伝いますよーってレベル。
そんなんじゃだめなのかなぁ?
そんなに特別扱いして、
障害者のひとの一挙一動に感動したり、同情する必要あるかなあ?
耳が聞こえにくい子、
指がない子、
いろんな友達がいるけど、
少なくともわたしの周りでそこまで過剰に反応されてる子はいなかった気がする…
失礼な言い方かもしれないけど、
障害が無いよりはあるほうがそりゃー不便だし、出来ることも全くの健常者よりは限られてくるとはおもうのよ。
けどだから不幸だ可哀想だなんて同情される筋合いもないし、その不幸というものを勝手に美化して外野で騒ぐのもどーかと思うよね。
「障害者」って表記がよくないから
「障がい者」にしましょう、
とか、なんかもー、なんなの?て思う。
別に害って、人へ向けられた言葉じゃないじゃん
あなたは害悪です!て言ってるわけじゃなくてさ。
障害者のひとが障害を持ってる、
それは単なる事実であり区別じゃん。
何故そこまで腫れ物に触るようにするかねー…
とか言ってまぁ、
表記が不愉快だからやめてください、と最初に言ったのが障害者のひとなのだったらそれはもう当事者の問題であって、それこそ外野のわたしがギャーギャー批判する資格はないのだけど。
なんか最初と最後でだいぶ矛盾した意見を書いてる風な流れになってしまった笑
まとめますと
何を以って幸せ、不幸せとするかそのひと次第。
障害者だからって可哀想可哀想言うのは逆に差別してるぞー
障害があるからって不幸だと決めつけるのは早いぞー
まあ実際障害あるかないかでいったら障害があるほうが日常生活で不便なのは事実
けど差別と区別は全くの別物です、
障害があるからと極端に畏まって接するんじゃなくて、自分と同じひとだけど、障害ゆえに大変そうにしてたらスマートに手助けしてあげられたらよいよね、
そんだけ!笑
なんかもーーどこぞの評論家気取り(笑)にぐちぐちぐちぐちすみません
別にストレスが溜まってるわけでもなんでもないんだけど
24時間テレビの障害者ドミノ?だかのキャプ画をまとめサイトで見て、あぁん????てなってしまいました(^o^)
以上!
はたから見たら、幸せって言える条件をすべてみたしている環境にある人だって、
その内情がどうであるかなんて本人にしか知り得ないことだし、
その環境を幸せと思うかはその人次第であるわけで、
逆もまた然るわけで。
だから、
片親だからあの子は可哀想だよね、って決めつけるのも間違ってるし、
お金があるからあの人は幸せだね、と言い切るのも難しい。
だってその人の事情なんてその人しかわかんないし、
何を以って幸せと言うか、不幸せと言うかも人によって違うもん。
ただ、
そう言っといて矛盾するようだけど、
何でもかんでも
不幸を美化する文化というのはそれもまたどうかと思う。
「あの辛い経験があったからこそ、いまの自分がいる」
「しんどかったけど、あの時のあの経験がなければ、今頃自分はここにいなかった」
とか、過去を振り返って考えることってわたし自身多いんだけど、
かと言って、
本当にこの世の出来事全てに意味があるか
(地球にとって、世界にとって、とかいう大きな規模でなく、自分にとってという個人規模で考えた時)
って考えると、一概にそうだとは言えないと思う。
ここから先、
ものすごく歪んだ意見なので
真剣に読んでる人がいたらすっごく申し訳ないのだけど
たとえば、
「不治の病にかかって、一時は絶望のあまり自暴自棄になったけど、病気のお陰で限りある命の尊さに気づけたし、周りのひとの大切さに気づけた!」
って主張する人がいたら、
そこまで前向きにとらえられるのってすごいな、ってわたしは尊敬はすると思うんだけど、
じゃあもし過去に遡って、「病気に罹る人生、罹らない人生」を自分で選択できるとしたら
わざわざ病気に罹る道を選ぶ人なんてまずいないと思うんだよね。
病気になったのは辛かったけど、お陰で命の尊さに気づけた、
とか
事故で母親を亡くしたのは悲しかったけど、残りの家族とお互い支え合った分絆が一層強くなった、
とか
じゃあ命の尊さに気づくために、病気になったほうがよかった?
家族の絆を強めるために、わざわざ事故で母親を亡くしたかった?
って聞いて、うんって答える人なんていないだろうと。
こんなゆがんだ例を通して何が言いたいかというと、
特に日本人にありがちなように思える、障害者、障害というものに対して過剰反応する感じ?に疑問を感じたんですよね(´`)
いまの時期、24時間テレビだかなんだかで毎年お涙頂戴的な企画をやるじゃないですか、
それを企画するスタッフも、
真剣に見て泣くひとも、なんだかなー。
とおもうのです。
障害者というものに対してみんなめちゃくちゃ敏感だから、
少しでも障害者のひとに対して目立つ発言があれば、
何かと差別だ差別だってうるさいじゃん。
差別と区別は違うのになあ…と
何度思ったことか。
障害者のひとに的を当てたドキュメンタリーとか番組の企画とかで、
「障害があるのにあんなに頑張ってる!」
「障害を物ともせず努力する姿に感動しました」
とか言って涙を流してる視聴者って、
結局障害者のひとに対して同情してるから泣くわけじゃん。
自分より能力が下だと思ってるから、彼らが何か偉業を成し遂げたとき、普通以上に驚いて泣くわけじゃん。
それこそ差別なんじゃね?
とわたしはおもう。
例えば、
耳が聞こえないひとを目の前にして、どーしよう、どうやって助けてあげよう?
っておろおろするひとはいても、
ちょっと風邪ひいちゃって、喉潰したから喋りたいのに声がでませんってひとを目の前にしておろおろするひとはあんまいないと思うのね。
「こ、この人は自分とは違うんだ!どうしよう、どう対応したらいいかな?!」
なんていちいち考えないし、
「声が出ないなんて、何て不幸なの?可哀想!」
とも考えないし、
「あ、いま喋れないの?喋ると辛いなら筆談にする?」
とか言うくらいじゃない?
みんなと感覚が違うかもしれないけど、
わたしにとって障害者のひとってそんなレベル。
障害があるからって別に過度に同情もしないし、気も遣わず、
ただ「あ、耳が聞こえないのか、そしたらこれならわかりやすいかな?伝わるかな?」って考えるし、
相手が障害ゆえになにか困ってたり不自由そうなら、出来ることならわたし手伝いますよーってレベル。
そんなんじゃだめなのかなぁ?
そんなに特別扱いして、
障害者のひとの一挙一動に感動したり、同情する必要あるかなあ?
耳が聞こえにくい子、
指がない子、
いろんな友達がいるけど、
少なくともわたしの周りでそこまで過剰に反応されてる子はいなかった気がする…
失礼な言い方かもしれないけど、
障害が無いよりはあるほうがそりゃー不便だし、出来ることも全くの健常者よりは限られてくるとはおもうのよ。
けどだから不幸だ可哀想だなんて同情される筋合いもないし、その不幸というものを勝手に美化して外野で騒ぐのもどーかと思うよね。
「障害者」って表記がよくないから
「障がい者」にしましょう、
とか、なんかもー、なんなの?て思う。
別に害って、人へ向けられた言葉じゃないじゃん
あなたは害悪です!て言ってるわけじゃなくてさ。
障害者のひとが障害を持ってる、
それは単なる事実であり区別じゃん。
何故そこまで腫れ物に触るようにするかねー…
とか言ってまぁ、
表記が不愉快だからやめてください、と最初に言ったのが障害者のひとなのだったらそれはもう当事者の問題であって、それこそ外野のわたしがギャーギャー批判する資格はないのだけど。
なんか最初と最後でだいぶ矛盾した意見を書いてる風な流れになってしまった笑
まとめますと
何を以って幸せ、不幸せとするかそのひと次第。
障害者だからって可哀想可哀想言うのは逆に差別してるぞー
障害があるからって不幸だと決めつけるのは早いぞー
まあ実際障害あるかないかでいったら障害があるほうが日常生活で不便なのは事実
けど差別と区別は全くの別物です、
障害があるからと極端に畏まって接するんじゃなくて、自分と同じひとだけど、障害ゆえに大変そうにしてたらスマートに手助けしてあげられたらよいよね、
そんだけ!笑
なんかもーーどこぞの評論家気取り(笑)にぐちぐちぐちぐちすみません
別にストレスが溜まってるわけでもなんでもないんだけど
24時間テレビの障害者ドミノ?だかのキャプ画をまとめサイトで見て、あぁん????てなってしまいました(^o^)
以上!