グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その10。最終回です)

2005年10月22日 | Wood's Book翻訳
 60年代後期、70年代のディーゼルは、早い時期のアメリカンと後のノーザン、ミカドとが非常に異なるのと同じように、性能、塗色、外見、大きさが、早期のディーゼルとは大違いであった。しかし、いまだにカスケードやロッキーの上り勾配を時速17マイルから22マイルで走っている。これは、馬力の不足によるものではなく、連結器にかかる力に配慮してのことである。後補機は、1マイルにも及ぶ6000トン以上の貨物列車の連結器にかかる力を均等にし、緩みが積み重なるのを防ぐために、今でも一般的である。カシミア、スカイコミッシュを出たところで、スロットルのノッチをあげる前に、貨物列車はカブースの後ろに後補機が連結されるのを待つ。そして、カブースの乗務員は、標準的な安全策として後補機に乗り移る。
 多くの乗務員は「Hill」(カスケードやロッキーの峠越え)の乗務を志願するわけではないが、彼らの功績は彼ら自身に名を与えている。「Hill Crews」は、高度に選択された機関士のグループである。また、ここで多くの助手が、機関士の資格を得ていった。6000トンの列車を2.2%及び1.8%の勾配区間で上り下りさせるには、連結器の積み重なる緩みや逆にすべてが伸びきってしまうことに、常に注意を払うことを必要とする。中途半端な状態は、連結器の破壊、そして更に悪い状況を招くそのものである。一度でも山岳部の勾配で列車分割を経験したことのある乗務員は、その経験を繰り返したいとは決して思わない。壊れた連結器あるいはその部品をレールの間の土や雪から掘り出して、この重い部品を元に戻すのは、非常にきつく、いらつく仕事であり、結果として何時間もの遅れに繋がってしまう。
 過去10年間ほどで、鉄道は大きく変化した。車両は大きくなり、ローラーベアリングによって更に転がりやすく加速しやすくなっている。3軸台車の大きな機関車は、プルマンと同じようなスムースな乗り心地である。運行指示は、ほとんど無くなり、今や何百マイルも離れた運転指令によるCTC信号の緑と赤の信号に置き換えられた。運転席とカブースに設置された列車無線により、1マイルも離れた乗務員間でも簡単に連絡が取れるようになった。列車間の連絡も同じ無線で行われ、列車の位置はブロックではなくフィートで測れるほどとなった。塗色もまた変わった。美しかったオレンジとオリーヴは1960年代初頭にシンプルなものに変えられた。更にその後、1967/68年には、短い期間ながら流行したビッグスカイブルーがやってきた。1970年のBNへの合併後は、多くのGNの機関車は(NPもSP&Sも同じだが)今や一般的となったカスケードグリーンと黒に塗り替えられ、長いディーゼルフードに定型化された巨大な白い字体で機関車番号を入れられている。Goat、NPのMonad、SP&SのレッドフットボールはBNのシンボルによって置き換えられていった。大きく言って、James J. Hillが思い描き、戦ってきたこのシステムは、今日のBNとなり、全米で最長の鉄道となり、すべての地点からの貨物を運び、メキシコ湾からカナダまで、五大湖から太平洋まで達しているのである。


「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その9)

2005年10月20日 | Wood's Book翻訳
 少し時間を戻して、1950年代中盤に、ディーゼルが電気機関車を一掃したことも驚くには当たらない。美しいYクラス、ずんぐりしたZクラス、巨大なWクラスは、この鉄道の新しい全体運用コンセプトによって、単純にステップを降りていった。これらの電気機関車を運用し続けていた唯一の理由は、8マイルの長さのカスケードトンネルであった。そこでは、ディーゼルは、自身の排気を絞らないと、前方の機関車からの積み重なった熱い排気に後ろに続く機関車が包まれてしまうため、このトンネルで重量列車を牽いて登ることはできなかった。たとえ機関車がこの状況に耐えられたとしても、乗員は有害な油煙に耐えることはできなかった。
 この問題の解決策は、GNの技術電気部門で策定された。もし何千立方フィートのフレッシュな空気が巨大なファンにより東側から強制的に送り込まれてトンネルを下り、西側のポータルから排出されれば、ディーゼルもトンネルを通過できることが確認され、決定された。冷却空気が非常に熱せられた排気をトンネルの天井から吹き飛ばし、後続の車両がオーバーヒートしたり、自動的に停止したりしないようにした。フレッシュな空気はまた、機関車が時速17マイルで安定的に上り坂を登っているときでも、先頭の機関車の運転室にいる乗務員が煙にまかれてしまうことを完全に防ぐことができた。試験運転時にも、その後の実際の運用でも、このベンチレーションシステムは良く働いた。ただし、1マイルくらい後方にいる後補機の乗務員は彼らに降り注ぐ排気煙の量にうんざりさせられていたが。カスケードトンネルの空気は30分できれいにできた。モンタナ州の新しい全長7マイルのフラットヘッドトンネルでは、カスケードトンネルの800馬力のファン2機の2倍の能力のファン2機がトンネルの入り口に設置され、18分程度でトンネル内の空気をきれいにすることができた。
 トンネルベンチレーションの出現によって、電気機関車は一晩で消えていった。それでも機関士たちは電気機関車を、特に、牽引することのできる重量の1.5倍の重量を引き止めることができる電気機関車の強力な回生ブレーキを懐かしがった。電気機関車が運用されていた日々には、回生ブレーキにより何千トンもの重量を2.2%下り勾配でも完全に制御可能だったので、機械ブレーキをずっと使うような機会はほとんど無かった。これと比較して、ディーゼルのダイナミックブレーキは、機関車が牽引可能な重量の半分しか引き止めることができなかった。これが、スティーヴンズ峠の下り勾配で補機が使用された理由のひとつであった。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その8)

2005年10月19日 | Wood's Book翻訳
 明らかに標準化のみが、GNがEMDに固執した理由ではなかった。何年にもわたり、EMDの機関車はほとんど問題を起こさなかった。機関区ではEMD製品に更に親しくなっており、維持管理やオーバーホールのやり方にも習熟していた。また、乗務員も制御席の親しみやすさからEMD機関車を選好していた。更に、マイナーなEMDの特徴、例えば、運転士と助手別々に調整可能な運転席暖房も重要なものとなっていた。助手が比較的暖かい席を好んでいるときでも、機関士は早朝の暗さの中で緊張感を緩まさないように少し涼しめの温度を好むこともあるからである。
 GNに限って言えば、馬力競争、そしてEMDのシェアの高さは、1966年にEMDから旅客用機関車として合計14両のSDP-40(3000馬力)とSDP-45(3600馬力)、貨物用として41両のSD-45とカウルタイプのF-45を購入したときにクライマックスに達した。F-45カウルユニットは、モンタナ州ハヴァーをベースとしていた。これは、この地域では普通の氷点下の気候では、乗務員も機関区職員も整備点検するのにフルカバーの機関車のほうがやりやすかったからである。他の機種のむき出しのランボードでは、雪や氷が積もってしまい、アクセスパネルを開け閉めすることも難しかった。また、むき出しの凍結したランボードを歩くことは、特に機関車が動いているときには大変危険なものであった。他方、マイルドな気候で雪や氷の問題が無いところでは、SD(むき出しのランボード)モデルが好まれた。これは、SDやSDPの運転室からの視認性が非常に良かったからである。助手も機関士も機関車の後ろ側の何も見えない状態の列車がすべて走っているかを見るために後ろ側の窓から身を乗り出す必要が無かった。また、牽引機に同乗しているブレーキマンにとっても機関車とそれに続く列車の両方をチェックすることがたやすかった。F-45の機関士や助手は、列車の後方を確認するために運転室から大きく身を乗り出さねばならず、特に夜には、線路沿いの建造物との間隔も限られていることを考えれば、これは非常に危険なものであった。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その7)

2005年10月18日 | Wood's Book翻訳
 1939年に最初のNW-3を購入したときから最後のGP-20(ハイフード)が納車されるまで、GNは、GPやSDを長い鼻の側を前にして運行させていた。これは、衝突の際、特に勾配で、乗務員を安全に守るためであった。1960年代初頭に鼻の低い2250馬力のターボチャージャー付のGP-30が納車されると、GNは短い鼻の側を前にして運行させるようになった。これは、改善された前方視認性の方が、長い鼻で乗務員を守ることよりも大きな安全性の要因となったからである。GNは、17両のGP-30を購入し、その後、24両の2500馬力のGP-35を発注した。馬力競争が始まっており、増加した馬力をより良く利用できる3軸台車に戻ってきていた。
 馬力競争にはAlcoもセンチュリーシリーズのC424(2400馬力)で参戦し、続いて2500馬力のC425、ついには3600馬力のC636を出した。GEもまた、2軸台車を使ったU-25-B(2500馬力)、U-28-B(2800馬力)、U-30-B(3000馬力)で馬力競争の優勢な側についた。同系機のU-25-C、U-28-C、U-30-Cは3軸台車を使っている。
 GNは、Alcoのセンチュリーシリーズを無視した。Alcoの製品は短い期間GNで人気を博したが、維持管理の問題が早期の終了を招いた。GNが最後にAlco(RS-3)を買ったのは1953年である。1940年代後期に購入された2両のRS-3、1両のRS-2、2組の4両ユニットのFA「幌馬車」は、子会社のSP&Sに送られた。SP&Sは、多くのAlco(79両)を持っており、これは、GN、NP、CB&Qを合わせたより多い台数だった。北西部で最大のAlcoユーザーのSP&Sではあまりトラブルは無かったようである。
 しかし、GNは新しいGEの機関車は無視しなかった。15両のU-33-C、6両のU-28-B、24両のU-25-Bを購入した。しかし、1970年(合併直前)の貨物用機関車527両、旅客用機関車61両のうち、EMD製以外の機関車は45両のみであり、これが上述のGEの45両である。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その6)

2005年10月16日 | Wood's Book翻訳
 全米のどこでもディーゼルのリストのトップを占めている、スムースな輪郭のFシリーズのすばらしい成功の直後に、EMDは今度は、運転室を薄いクラッカーの箱ではさんで車輪に乗せたように見える機関車を売り込んで、各鉄道を驚かせた。しかしながら、このGP-7(General Purpose Locomotive)は、すぐに成功を収めた。この機関車は、本線でも、支線でも、ヤードでさえも同様に効率的であった。乗務員からの視認性は、バックのときも非常にすばらしく、整備のためにもフードの両側に並ぶ扉から簡単にディーゼルエンジンにアクセスできた。この後のGP-9は、更に良いダイナミックブレーキと1750馬力エンジンを持ち、少しだけ非力な弟(1500馬力)と同様に実用的であった。グレートノーザンは、合計して56両のGP-7と79両のGP-9を発注した。
 また、専門的な業務のために購入されたのが、23両のSD-7(6モーター)と27両のSD-9である。これらの車両は、3軸台車を履き非常に軽い線路にも対応可能で、必要なときには一日中時速10マイル以下で運転されてもトラクションモーターをオーバーヒートさせることはなかった。多くはハンプ機関車として使用された。そこでは、この機関車の低いのろのろとしたスピードが、長編製の貨車をハンプに押し上げ、その後一回に数両ずつヤードに落としていく仕事に理想的なものであった。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その5)

2005年10月15日 | Wood's Book翻訳
 GNは、このような大型の旅客用機関車を保有、運用したことはなかったのであるが、1930年代からEMDの旅客用ディーゼルを運用してきた子会社のバーリントン鉄道から多くの経験を引き出すことができるように見られた。しかし、見逃されていたのは、バーリントン鉄道は、「農民」鉄道で、シカゴから一番西でもロッキーのふもとのデンヴァーまでしか行っていない平らな横顔を持っていることであった。他方、GNは、ロッキー山脈とカスケードで長い勾配を有し、ロッキーへの西側のアプローチでは何マイルもの1%勾配を有していた。E-7-Aは、2000馬力と高速ギア比で、旅客用機関車としては理想的であった。しかし、勾配での重量負荷や速度が30マイル以下となって長く経つと、トラクションモーターがオーバーヒートを始めた。
 普通の電気機関車の運用と同様に、トラクションモーターの熱は、長時間維持可能な牽引能力の総重量を限定する条件となる。長時間のオーバーヒートは、絶縁材を燃やし、モーター全体を急速に溶かして、ただの銅線の塊にしてしまう。トラクションモーターの問題が1947年の山岳部の勾配でエンパイアビルダーを悩ませ始めたのは、シアトルとポートランド行きの座席車を追加しビルダーが長く、重くなってきたときであった。E-7-Aは、ビルダー用に設計されたにもかかわらず、その運用からはずすことが必要になり、より多用途向けで低いギア比、1500馬力のF-3、F-5、F-7(GNでは旅客用としてP-3、P-5、P-7とクラス分けされていた)に交代させることが必要となった。
 1950年5月には、GNは183両のディーゼル機関車を運用しており、残る1950年と1951年中に更に119両の納車が予定されていた。119両の発注のうち、Alco製は20両のみで、その半分はヤード用入替機であった。1950年にはまた、GNは初めてGP-7を発注した。これは、1946年のNW-5シリーズ(GPシリーズの前任)の十分な成功、更にその前の1939年のNW-3によるものである。NW-3、NW-5の両方とも基本的には、1000馬力のヤード用入替機NW-2の車体を延長して列車暖房装置を搭載した機関車で、本線上を走行するためにFTタイプの台車を持っていた。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その4)

2005年10月13日 | Wood's Book翻訳
 GNのディーゼルへの転換は、メーカーが機関車を納品できる限り早く、また、GNがディーゼルを運用、維持できるように訓練される限り早く、進んだ。ある時点では、GNは96両のFTを有し、アメリカ最大のFT運行会社となっていた。供給不足のみが、更に早いシステム全体の転換を妨げていた。もし、第二次大戦中にFTをもっと購入できて早く使用可能になっていれば、22両のO-7がO-8にアップグレードされたかどうかは相当に疑わしい。更に、もしディーゼルが戦後すぐに十分な数量使用可能になっていれば、蒸気機関車が、重要な改善をなされたり、より近代的な水準に改造されたりすることはなかったであろう。蒸気機関車の伝統は、100年の鉄道運用の上に造り上げられてきた。しかし、ディーゼルは、その経済性、運用実績、使用可能性により、10年もかからずに鉄道の機関車に実質的な革命をもたらした。実際、ディーゼルは、鉄道をその実質的な消滅からも救う力となったのである。
 既存の貨物用蒸気機関車をできる限り早く交代させることが必要であること、そして、旅客用も、エンパイアビルダー(軽量客車を発注済)、オリエンタルリミテッド、ファーストメイルその他の列車が同様に新しい機関車を必要としていることは疑いもなかった。1945年、GNは、最終的には1947年エンパイアビルダーの機関車となる、EMDのE-7-Aシリーズの最初の1台の納車を受けた。これらの2000馬力の旅客用機関車(オレンジとグリーンの新しい外装で衝撃を与えた)は、時速100マイルを越える能力で設計された始めての機関車であった。これらの機関車を慣れさせるために、これらの機関車はファーストメイル(列車NO.27及び28)に投入され、数ヶ月間この仕事を続けた。これらの機関車の加速力、運転が簡単という資質、高速での安定性等により、比較的軽量で高速の郵便列車をスケジュール通り動かし、必要であればそれ以上早く走らせることも可能であった。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その3)

2005年10月12日 | Wood's Book翻訳
 この新しい機関車の実用価値は明らかであった。FTディーゼルは「いつでも」使用可能であるだけでなく、オプションや改造により、更に専門的な業務にも適用可能であった。もはや、それぞれの目的別(鉱石列車牽引、山との戦い、ビルダーの牽引、支線業務、平らな地域での旅客と貨物の輸送等)に専門化されたカスタムビルドの機関車は必要なくなった。多数の業務に対応するために必要なのは、ギア比設定の違いだけであった。そして全国の機関区で同一のパーツがそろえられ、重要な修理は訓練された会社の人員によって行われるか、製造会社に送られてオーバーホールされたり、一新されたりした。更に、提供されたダイナミックブレーキは、下り坂で起きる列車運用の問題点の多くを未然に防ぐこととなった。十分にFTを有すれば、セントポールからシアトルまでのどんな業務にも対応可能であった。
 更に、給水塔、アッシュピット、給炭設備、その他の蒸気機関車運用に必要な設備が不要となることによって、GNは、費用支出、設備維持費、設備にかかる税金、これらを維持管理する人件費等を節約することができた。節約は、乗務員の人件費についてもさらに大きかった。ディーゼルが、4両ユニットで走行可能であるならば、先頭のユニットの運転室の乗員一人のコントロールで6両、7両、更にそれ以上のユニットで走れない理由はなかった。複数のユニットで運用されるようになると、補機は事実上消滅した。ただし、例外的に、一番きつい地域では、長い貨物列車のカプラーにかかる力を軽減したり、長い下り坂でのダイナミックブレーキの力をコントロール可能にすることを助けたりするために、列車の中間または後ろに補機が置かれた。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その2)

2005年10月11日 | Wood's Book翻訳
 1926年、GNは北西部で初めて、真のディーゼル「オイルエレクトリック機関車」、No.5100、Alco-GE-Ingersoll Rand製に投資した。この機関車は、セントポールとミネアポリスのツインシティターミナルで使用され、そこでディーゼル入替機関車は実用的で、蒸気入替機よりもコストが安いことを証明した。
 1938年までには、GNは確実に多くのディーゼル入替機を購入していた。GNは、600馬力及び1000馬力の機関車をElectro Motive Corporationに28両発注し、鉄道全体で利用することを計画していた。1940年、41年には、17両のディーゼル入替機が追加発注された。17両の内訳は、GEの360馬力の小型機1両、ボールドウィンの2両の1000馬力の入替機(ミネアポリスとセントポールでの運用用)、EMDの14両であった。
 更に重要だったのは、以下の車両の発注であった。EMD FT A-B 3セット、ウォルトンヒル(マリアス峠)用のFT A-B-A 1セット、インターベイ~スカイコミッシュ間用のA-B-B-A 4セットである。この発注は、プロトタイプの4両ユニットのFTディーゼルNo.103により明らかにされた能力の直接的な結果によるものであった。No.103は、ロッキーやカスケードでGNの最大級の機関車(間接型のN-3、更に大型のN-2、N-3)以上の牽引力と実績を示したばかりでなく、ほとんど疲れを見せることがなかった。その90%という使用可能時間は、他の機関車ではありえなかったものであり、GNの機関車運用部門に強い印象を与えた。アイアンレンジでのきつい走りを終えた後、短時間での整備、ディーゼルオイルの充填だけで、最小限の整備しか必要としない重量級線路のように、ディーゼルはいつでも発車準備OKであった。きれいにすべき火室も、洗浄すべきボイラーも、きちんと走らせるための詳細な整備も、煙菅からの漏れや緩んだ機器も、無かった。もし次の仕事が軽量客車であれば、常時連結の2組のA-Bセットに別れて、一組はその軽量客車に、もう一組は他の客車や軽量貨物牽引に使用することも可能であった。
 4両ユニット貨物用機関車の各ユニットは、1350馬力、57,000ポンドの牽引力を有するV-16シリンダーディーゼルエンジンを搭載していた。ギア比は用途に応じて発注可能であり、低いギア比(最高速度時速65マイル)であれば、各ユニットは軽量ミカドと同程度の力を持っていた。ハイスピード用ギア比では、最高速度は時速89マイルとなる。貨物用に発注されたほとんどのFTは最高速度時速65マイルのギア比であった。他方、第二次大戦後にやってきた旅客用のユニットは、最高速度89マイルで発注された(本当は90マイル前半の速度を出すことが可能であったが)。

「Wood's Book」翻訳:第7章 ディーゼル (その1)

2005年10月10日 | Wood's Book翻訳
 GNは、ディーゼル運用における経済性とメリットを北西部の鉄道の中で最初に認識した鉄道である。その時代にはまだ十分に認識されていなかったが、ディーゼルの時代が始まったのは、1920年代初頭、ダコタからブリティッシュコロンビアへの支線で小さなガスエレクトリックカー「doodlebugs(訳注:アリジゴクの幼虫)」が動き出したときに確かに始まっていたのである。そこでは、多くの乗務員を必要とする、初期のアメリカン、テンホィーラー、モーガル等は、少ない乗客と少量のローカルな貨物を輸送する手段としてはコストがかさみすぎていた。初期のモデルは不安定で、ターミナルに引いて戻ってこられることも多かった。しかし、改善・改造が進むにつれて、新しい車両は蒸気機関車と同じように信頼できるものとなり、かつ、運用費用も大幅に安かった。後期のモデルになると、パワーも増し、自車を動かすだけでなく、1両の客車を牽いたり、1~2両の貨車を牽いたりできるようになっていた。
 1926年、GNは北西部で初めて、真のディーゼル「オイルエレクトリック機関車」、No.5100、Alco-GE-Ingersoll Rand製に投資した。この機関車は、セントポールとミネアポリスのツインシティターミナルで使用され、そこでディーゼル入替機関車は実用的で、蒸気入替機よりもコストが安いことを証明した。

「Wood’s Book」翻訳「第7章 ディーゼル」掲載開始(予告)

2005年10月09日 | Wood's Book翻訳
 グレートノーザン鉄道ファンにとって教科書とも言える本が、ファンの間では通称「Wood’s Book」と呼ばれる「The Great Northern Railway : A Pictorial Study by Charles & Dorothy Wood」です。1979年にPacific Fast Mail(PFM)社により出版されています。
 既に、この本の「第6章 蒸機:大平原から大海原へ」と「第3章 カスケードを超えて」、「第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー」の翻訳を掲載させていただきましたが、明日より第4シリーズとして「第7章 ディーゼル:オマハオレンジ、ビッグスカイブルーそしてカスケードグリーン」を掲載いたします。
 この章では、GNのディーゼルの歴史や、エンパイアビルダーの牽引機、Uボートシリーズや、SDシリーズについて書かれています。
 いずれにしましても、素人の翻訳ですので、分かり難いところ、間違っているところ等あるかとは思いますが、御笑覧頂ければ幸甚に存じます。

 なお、この翻訳掲載につきましては、天賞堂模型部様とPFM社様のご厚意によりご承諾を頂いているものです。(今後このブログに掲載される翻訳を、翻訳者及び発行者の許可を得ずに、無断で複写・複製・転載することは法律で禁じられています。Copy Right 2005 Hiroshi Suzuki and 1979 Pacific Fast Mail: All Rights Reserved)
地名については、アメリカ地名辞典(井上謙治、藤井基精編:研究社出版)によってなるべく日本語表記をするように努めました。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (最後です)

2005年08月25日 | Wood's Book翻訳
 カスケードのウェナッチーとスカイコミッシュ間では(1947年から1956年まで)、ビルダーは、もちろんディーザル機関車の前に連結された電気機関車で牽引された。スカイコミッシュとメリット間の2.2%勾配では、E-7-Aは225トンの牽引力しかなく、2両のAユニットを合計したパワーでもこの勾配を補機なしで登るには不十分であった。更に運用を複雑にしたのは、トンネル内では、煙やガスの発生を避けるためにディーゼルはアイドルポジションで走らなければならなかったことである。初期のディーゼルはダイナミックブレーキを装備していなかったので、東西どちらに向うにしろ、勾配を下る際には、電気機関車の回生ブレーキが必要不可欠だった。ウェナッチーでもスカイコミッシュでも特定のクラスの電気機関車がビルダー専用として割り当てられたことはなかった。むしろ、割り当ては必要性に応じ、運転指令の自由裁量に任せられていた。結果として、その時々に応じ、列車番号31と32は、2両のYクラス、YクラスとZクラスの混合、巨大なWクラス等によって牽引された。
 Wクラスは、1947年に納車されたが、オマハオレンジとオリーブグリーンで塗装されていた。同時期に、GN工場は、Yクラスをこのカラースキームに塗り替え始めた。Yクラスが工場入りするごとに、塗替えが行われ、最終的にはYクラスすべてが燦然たる流線型列車カラースキームとなった。Zクラス機関車は、塗り替えられることはなく、スクラップされる日までオリーブと黒のカラースキームのままであった。
 1967年・1968年に、エンパイアビルダーは、そのカラースキームをオマハオレンジとオリーブグリーンからビッグスカイブルーに変更したが、その外観はそれほどよくなったとは言えなかった。1970年には、バーリントンノーザン鉄道の創設により、車両はカスケードグリーンに白をアクセントとしたカラーに塗り替えられた。このカラースキームがほとんど広がらないうちに、AMTRAKにより運用が引き継がれてしまい(訳注:1971年5月1日より)、エンパイアビルダーのアイデンティティはほとんど完全に失われてしまった。現在、オリジナルの車両は、AMTRAKシステムのどこかで使用されているか廃車となっており、エンパイアビルダーの名前だけが時刻表に残るだけとなってしまった。
(了)

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その14)

2005年08月24日 | Wood's Book翻訳
 1929年に走り始めた当初から、エンパイアビルダーには機関区の中で最高の機関車がいつも割り当てられてきた。蒸気機関車の時代には、ノーザンやマウンテンがビルダーに常時割り当てられた。時には近代化されたパシフィックが平坦な区域でビルダーを牽くこともあったが、これは、先輩のオリエンタルリミテッドよりも早いスケジュールで走る1000トンの列車にとって、例外的なことだった。主要駅(セントポール、ファーゴ、マイノット、ハヴァー、ホワイトフィッシュ、スポーカン、ウェナッチー、シアトル)には、予備機がスタンバイしており、機関車の故障や不具合で必要となったときには常に数分で交代可能となっていた。
 1947年ビルダー用にE-7ディーゼルが購入されたときには、この強力で高速かつハンサムな機関車が、このまさに専用の列車からこんなにも早く引退するとは誰も思っていなかった。大きなE-7は、モンタナ州やノースダコタ州、モンタナ州東部等の大平原を走るゆるいカーブや長い緩勾配で軽い列車を楽々と牽いた。しかし、ビルダーが12両編成から14両編成になると、山岳部で必要とされるパワーは、2両の2000馬力の機関車より、単純に大きいものであった。1950年に、E-7をビルダーの先頭に立たせ続けさせるために、2両のE-7-Aの間にE-7-Bを加えることが試されたが失敗だった。この1500馬力のBユニット(500B-505B)は、この運用のために製造されたものであったにもかかわらず、このユニットのギア比はAユニットのギア比とマッチせず、Aユニットの牽引モーターのオーバーヒートという問題は収まることがなかった。
 この試験期間の後、E-7-Aはエンパイアビルダーから引退し、列車暖房用ボイラーを付けて旅客用に改造されたどこにでもいるFユニットに置き換えられた。Eユニットと交代したFユニットは、ディーゼル機関車としては面白い品種であった。時速89マイルのギア比とされていたが(ただし、GNは自動列車制御装置も運転室内信号も有していなかったため、ICCにより最高速度は時速79マイルに制限されていたが)、これらの機関車は、F-3、F-5、F-7の各クラスが混在したものであった。ただし、GN自社工場での改造によりすべての機関車が初期のF-7に似たものとなっていたため、どれがどのクラスかの判別は外見では実質上不可能であった。
 エンパイアビルダーは、GNのショーケースであった。それゆえに、この鉄道にとって、ビルダーが可能な限り最高の外観と内装を呈することは非常に重要であった。この考えの少なからぬ表れは、機関車のラインと列車のラインの継続性であった。Aユニットがその先頭をAユニットの後部に連結されたり、Bユニットが直接、列車の先頭車両と連結されたりすることは、ほぼほとんどなかった。GNはこれらの機関車を必然的な並び方、すなわちA-B-AまたはA-B-B-Aの形で運用した。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その13)

2005年08月21日 | Wood's Book翻訳
 1948年5月に、プライベートルームへの需要の高まりに応えるため、グレートノーザンは、ビルダー1編成あたり2両の寝台車を追加発注した(1両はシアトル向け旅客用、もう1両はポートランド向け旅客用)。これにより、スポーカン以東ではビルダーは14両編成となるわけである。寝台車(それぞれ、1室のDrawing Room、3室のコンパートメント、5室の寝室からなる)の納車は、18ヶ月から24ヵ月後と見込まれていた。更に追加的に、展望車、食堂車、クラブカーがエンパイアビルダー用に発注された。また、何両もの新しい座席車がオリエンタルリミテッド用に発注された。
 1948年10月に、GNは驚くべき発表を行った。GNは新規に6編成分の車両(30両の寝台車、各6両の座席車、食堂車、コーヒーショップカー、展望車、荷物車、郵便荷物車等)を総額850万ドルの見込みで発注した。1951年にこれらの車両がエンパイアビルダー用に到着し、ビルダーのこれまでの車両はオリエンタルリミテッド(現在はウェスタンスターとなっている)に充当され、GNはシアトル~シカゴ間に2本の流線型列車を持つこととなった。新しい車両のコストは、1200万ドルに達した。更に、1955年に600万ドルをかけて16両のドームコーチと6両のグレートドームラウンジカーを購入し、Mid-Centuryエンパイアビルダーは完成した。
 1951年のエンパイアビルダー(実際はそのうち5編成分)において、GNは1924年から続いていたすべてをプルマン社に任せることを止めた。食堂車、コーヒーショップラウンジ、展望ラウンジ車は、American Car and Foundry社によって製造された。Appekunny、St. Nicholas、Going-To-The-Sun、Cathedral、Trempealeau Mountainsと名づけられた展望車は、今までより高い窓によるより良い景色を特徴としていたが、いくつかの点では20世紀特急に似ていた。食堂車(Lake of the Isles、Lake Wenatchee、Lake Ellen Wilson、Lake Union、Lake Minnetonkaの名をおっていた)は、よりソフトな、より微妙なカラースキーム、間接照明、彫刻ガラスのパーティションを特徴としていた。「The Ranch」カー(コーヒーショップ車)は、編成の中で多分最もユニークな車両といえるだろう。モンタナ州へレナで登録されているG-Bar-Nブランドに本物の西洋風装飾を施して完成させている。これらの車両の名前は、Crossley、Running Crane、Hidden、Iceberg、White Pine Lakesである。
 プルマン社は、北東部のインディアンの絵画とアートデザインをディスプレイした寝台車を製造した。各編成のうち、3両の寝台車は、川の名前、Chumstick、Tobacco、Skykomish、Sheyenne、Fraser、Sun、Skagit、Spokane、Snohomish、Mouse、Pend O’reille、Milk、Poplar、Bois De Sioux、Snakeがつけられていた。残りの各3両は、山の峠の名前、Jefferson、Suiattle、Rogers、Hart、Haines、Pitamakan、State、Blewett、Akamina、Firebrand、Inuya、Santiam、Horn、Lewis and Clark、Wapinitiaがつけられていた。
 ドームコーチとグレートドームラウンジカーは、Budd社により製造された。これらの車両では、壮大なパノラミックビューが得られ、乗客はこれらの車両に殺到し、特に前のほうの席に集まった。フルドームカーには75席あり、下階の人気のあるカクテルラウンジには34席あった。100トン近くの重量があり、3軸台車を履いたこれらの車両は、編成の中で最も良い乗り心地を提供した。ただし、グレートドームの窓の下側は高くなっていたので、実際には小さいドームコーチの方がより良い眺めをえられたのであるが。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その12)

2005年08月20日 | Wood's Book翻訳
 個別の客車名は、エンパイアビルダーと、この列車が走る地域とを結びつけるように慎重に選ばれた。多くの客車名は、グレイシャー国立公園の湖、峠、氷河等から名づけられた。ランチカウンターラウンジ車は、Waterton、St. Mary、Two Medicine、Cour d’Alene、Red Eagle Lake等の名前を受けた。食堂車は、Superior、McDonald、Chelan、Josephine、Michigan等の湖の名前をつけられた。展望車は、Mississippi、Missouri、Flathead、Kootenai、Marias等の川の名を有していた。5編成に各4両ずつ配備された寝台車のうち各2両は峠の名前、Gunsight、Ptarmigan、Dawson、Piegan、Logan、Triple Devide、Lincoln、Cut Bank、Red Gap、Swift Current等をつけられた。残りの2両は公園内の氷河の名前、Blackfoot、Ahern、Grinnell、Hanging、Many、Oberlin、Sexton、Harrison、Sperry、Siyeh等の名を有していた。
 インテリアのカラーと装飾もビルダーが走る地域から採用された。プルマンスタンダード社と緊密に協力しつつ、グレートノーザン鉄道とバーリントン鉄道は、北西部の帝国の文字通り数百枚のカラー写真を研究した上で、カラーとデザインを選択した。ここでもグレイシャー公園が支配的で、多くのカラースキームに影響を与えた。座席車や食堂車に使用されたブルーは、氷河湖の色彩にインスピレーションを得たものである。多くの緑系の色も公園の花々や葉々から引き出された。木々の樹皮は、座席車の赤みがかったブラウンのシートカバーの色に生かされた。スプルース(訳注:ハリモミ、エゾマツ等)の木々は、ブルーグリーンを与えてくれた。大平原の小麦は、イエローのトーンを与えてくれた。
 展望車のテーマは、Winold Reissの絵画でインディアンのブラックフィート族に敬意を表し、仕切り壁にかけたCharlie Russellの水彩の複製でパイオニアたちに敬意を表するといったものであった。カーテンはハドソン湾の毛布のレプリカであった。インディアンの絵画とハドソン湾カラーは、コーヒーショップカーにも使用された。
 座席車は、単彩画法のブルー、グリーン、イエローであり、主要なトーンは窓の下側に使用された。タン(黄褐色)、アプリコット、グリーン、グレー、イエローの色合いが寝台車には使用された。
 食堂車には、Walter Loosによるグレイシャー公園の野生の花々の油絵の写真または手書きによる複製が、テーブルの間のパネルに収められていた。精緻な絵画のために氷河ブルーのカーテン、ラグ、装飾がセットとなっていた。