二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

ムハンマドの天界飛行

2022-07-13 21:14:00 | イスラム/スーフィズム
以下の細密画は、16世紀のトルコの画家たちの手になる「マホメットの天界飛行」と題された作品である。マホメットの生涯を表したこの宗教画には、虚実とりまぜた天界飛行の様子が描かれている。厚き信仰の人マホメットは、七つの天を順に巡り、比類なきほどの至上の恩恵を得たのち、神の面前に立つのである。(以下マホメットはムハンマドに表記)

ムハンマドの天界飛行

   
 ある晩、ムハンマドのもとに天使があらわれた。天使ガブリエルはムハンマドを眠りからさますと、頸をちょうどよい大きさに裂き、中から心臓をとりだして洗った。再びムハンマドのからだのなかに心臓がもどされたとき、ムハンマドの魂は信仰と知恵に満たされていた。浄らかな心をもったムハンマドは空想上の動物、天馬(ブラーク)にまたがった。天馬は女の顔をしており、やっと目が捉えるほどの距離をただの一跳びでかけることができた。


 
 初めに二人が出会ったのは白いニワトリであった。ニワトリは頭でアッラーの王座をささえ、足を地につけていた。よってイスラムの土地には、人間の国に深く根を降ろさない宗教など存在しないのである。



 二人はゆっくりと進んだ。二人を待ち受けるのは永遠なる神に選ばれた者たちだった。そしてムハンマドと天使ガブリエルは、ダビデとソロモンに出会った。


 
 次に二人はモーセに礼を捧げた。彼らはすべての族長と預言者に礼をつくして、天上のモスクに来てもらったのである。



 次に二人は、エメラルドの玉座にすわるアブラハムにまみえた。カーバ神殿の礎をきずいたのが、このアブラハムである。アブラハムはイスマイルの父であり、アラブ人の祖である。



 最後に天馬は7番目の天に二人をつれていき、ムハンマドとガブリエルは天使たちに迎えられた。



 7番目の天で二人は大きな建物に入るようにいわれた。その建物は神の世界にありながらも、通路はどこか人間界の通路のようにも思われた。



 アラビアで二人はエメラルドと真珠の木を見つけた。その木の下にはナイル川とユーフラテス川が流れていた。



 600枚の羽をもつ大天使ガブリエルは、かくしてムハンマドにアッラーのことばを伝えるという、みずからの使命を果たしたのである。



 砂漠をわたる隊商の、名もないメッカのラクダひきムハンマドは、ついにアッラーの前にひれふした...。



 ムハンマドは雲と光につつまれ、神の前にぬかづいた。くり返し神の前にひれふすことは虚しいことではないと、ついにムハンマドは悟った。



 天国についたムハンマドは、ラクダにのった天女(フーリ)に迎えられた。



 これこそ神は唯一であると説きつづけたムハンマドの忍耐強さへの報いであった。



 ムハンマドのことばに耳を貸さず、なおざりにした人は地獄の業火に永遠に苦しむことになる。



 これが信心深いイスラム教徒が代々語りついてきたムハンマドの伝説である。



 しかし、アッラーの預言者の伝説とは、それ以上にごくふつうの男の生涯でもあった。



 だが、「ふつうの男」の生涯によって、歴史は大きく変わったのである。

アンヌーマリ・デルカンブル著 創元社「マホメット」より

アッラーの啓示

2022-07-13 21:13:00 | イスラム/スーフィズム
メッカから数キロ離れたところに、ヒラーという小高い丘がある。611年、すでに40歳になっていたムハンマドは、ときおり、夜通しこの丘の洞穴にこもることを習慣としていた。乾燥して草木の生えないヒラー山は瞑想にはうってつけの場所だったからである。魂の邪魔をするものはなにもないこの丘で、彼は神の啓示を授かる・・・

啓示を受けた洞窟の岩盤にその旨が記載されている。wiki
   

ヒラー山はムスリムの巡礼者がきそって訪れる場所であるが、山の入口には、「この山は本来は神聖視されるべきものではない」という断りが記されている。wiki


 アッラーの啓示

 私(ムハンマド)が眠っていると、彼(ガブリエル)は
文字の書かれた錦の布を持って私の前に現れ、「誦め、よめ」と言った。私が「何を誦むのか」と言うと、その布で私の首を締め上げたので、死ぬかと思った。このようなことが三度も続いた。

 彼は言った。《誦め、「創造主であるお前の主の名において、主は凝血から人間を創造した」。
誦め、「お前の主は寛大このうえなく、ペンで教えた。人間に未知なることを教えた」。(96章1−5節)

 私はそれを誦んだ。誦み終わると、彼は私から去った。私は眠りからさめたがそれは心に書きこまれたかのようだった。

 そこを出て、山の中を歩いていると、天からの声を聞いた。「ムハンマドよ、お前は神の使徒である。私はガブリエル」。天を見上げると、男の姿をしたガブリエルが、両足を地平線にそろえて立ち、「ムハンマドよ、お前は神の使徒である。私はガブリエル」と言っていた。私は、彼を見て立ちすくんだまま、進むことも戻ることもできなかった。顔をそむけようにも、ガブリエルの姿は地平線のあらゆる方向に、同じように見えた。前に進むことも、後ろにさがることもできないまま、その場に立ちつくしていた。
 
ムハンマドの前に現れたガブリエル(ジブリール)
 

 怖ろしくなったムハンマドは、ふるえながら、おぼつかない足どりで山をおりた。冷たい汗が額をながれた。顔はやつれ、両目は熱をおびて輝き、両肩はひきつったように小刻みにゆれ、あまりの狼狽の大きさに、山の崖っぷちから身を投げることまで考えた。胸苦しい、息のつまりそうな荒々しい感情がムハンマドをとらえた。

 ムハンマドは、なにを見、なにを聞いたのか。この時に彼はほぼ40歳。人生の試練にきたえられた、分別盛りの商人を、これほどまでに動揺させたものは、いったいなにか。サタンだろうか。だが、どうやらそれは、神の使い、天使ガブリエルが、ムハンマドにその前途を告げにやってきたようであった。そのことをムハンマドが確信するには、さらにくだされる啓示を待たねばならなかった。

 この夜、ムハンマドは、ヒラー山での一件を妻のハデージャにだけ打ち明けた。ハデージャはこの一件を知ってからも終生ムハンマドの支えとなる。

 つぎつぎに下される啓示は、ムハンマドにとってあいかわらず苦しい試練ではあったが、やがて慣れてきた。啓示のときには、何時間も酒に酔ったような放心状態が続き、からだは震え、たくさんの汗をかいた。そして鎖がすれるような、鳥の羽音のような音が聞こえてくるのだった。ムハンマドは、のちにこう述べている。「啓示が下されるときは、いつでも魂が抜けたような気になったものだ」。

 神が人間に直接語りかけることはあり得なかった。ムハンマド以前にも、アダム、アブラハム、モーセ、イエスのような預言者があらわれたが、公けにされた法は、すべて人間の手で書き写されたものだった。しかし、ムハンマドは、神の声が自分に伝えるように命じたことばを、ひたすら「誦む」ことにつとめた。聴衆を前にしての、この荘厳な読誦は、アラビア語でクルアーンとよばれ、ここからムスリムの聖典「コーラン」ということばが生まれた。

創元社「マホメット」
岩波書店「預言者ムハンマド伝」より



生命の根源にある意識

2022-07-13 06:03:00 | 日記

 生命の根源にある意


   ピカソ「夢」
  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・


 このような夢が覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるだろう


 実のところ、生命は心理的な秩序に属する。心的なものの本質は、相互に浸透しあう錯綜した多数の項を内包しているところにある。


 生命の根源にあるのは意識、いやむしろ超意識である。けれどもこの意識は、一つの創造要求であり、創造が可能であるときにしか、自己自身に対して姿をあらわさない。


 この意識は、生命が自動性に堕しているときには、眠りこんでしまう。しかし選択の可能性が蘇るやいなや、この意識は目をさます。


 自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものである。


 私たちの意識は自然的というより歴史的なものである。意識には記憶というものが必要だからである。


 単なる反応は意識ではない。意識は関係を知ることであり応答することである。

  ベルクソン   『時間と自由』2章

         『創造的進化』3章より


  イマージュ     
   

 直観とはどんなものでしょうか。哲学者本人がそれを定式化できなかったのですから、私たちにそれができるはずはありません。しかし私たちは、具体的な直観の単純さとその翻訳である抽象概念の複雑さとの中間にあるイマージュなら、何とか把握して定着することができるかもしれません。


 このイマージュは逃げ足がはやく、本当に消えやすいものです。それはおそらく、哲学者本人も気づかないままに彼の精神に付きまとい、彼の思索の紆余曲折に沿って影のように後ろからついてくるのです。


 このイマージュは直観そのものではありませんが、しかし「説明」のために直観が頼らざるをえない必然的に記号的な概念表現よりは、ずっと直観に近いのです。


 影のようなこのイマージュをよく観察してみましょう。そうすれば影を投げかけている身体の姿勢を見分けることができるかもしれません。その姿勢を外から模倣するだけでなく、その姿の中に自分が入りこもうと努力すれば、哲学者の見たものを可能な範囲で見ることができるかもしれません。

  『哲学的直観』媒介的イマージュ


  ピカソ「読書する女の顔」

   

   

  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・のイマージュです。