二つに見えて、世界はひとつ

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不老不死の樹を探す話

2022-07-19 20:51:00 | イスラム/スーフィズム
生命の樹-カルパヴリクシャ(如意樹)はインド・ヒンドゥー神話に登場する空想の木で、宇宙を統括する帝釈天(インドラ神)の楽園に生えていると言われています。高さは10ヨージャナ(由旬)〈1ヨージャナ≒14.4km〉あり、願をかけるとどんな望みでも叶えてくれる力があると信じられてます。稔り多い豊かさと幸福の象徴といえます。

  カルパヴリクシャ


 果実は黄金色をしてとても香りがよく、この木からその果実を受領したものは神々と同じように永遠の命が約束されると考えられています。


 不老不死の樹を探す話

 学問を修めたある者が、ある日ある物語を語って言うには、「インドに、かくかくしかじかの樹がある。その樹にみのる果実を手に入れて食した者は、決して年を取らず死ぬこともなくなる」。
 ある王が、ある正直者からこれを聞き、たちまち木の実が欲しくてたまらなくなった。そこで学問所に勤めるある優秀な者を選び出し、探索のためにインドの地へ使節として赴かせた。

 王の使節は、その樹を探して何年もの間かの地をさまよい続けることになった。町から町へ、島も山も、平野も、ありとあらゆるところを探し尽くした。 ー訪れたことのない場所はもはや残されていなかった。木の実について尋ねると、皆彼をからかって言った、「どこぞへ閉じ込められていた狂人でも無い限り、そんなものを探そうなんて思いつきもしないよ」。誰もが、彼を嘲って軽口をたたいた。ある者は言った、「ご立派なことだなあ。おまえさんほど心の澄んだ賢い者なら、結果を出せないはずがないよ。せいぜいがんばることだな、無駄に終わるってことはないだろうよ」。

 そんな皮肉混じりの誉め言葉に、彼は別の意味で打ちのめされた。彼にとり、それは本当に殴られるよりも耐え難いことだった。皆が皆、揃って嫌みっぽく彼を褒めちぎり、言うのだった、「おお、貴い使節どのよ」「どこそこに、それらしく桁外れに大きな樹があるよ」「いやいや、どこそこの森に青々として高い樹があるよ」「いやいや、どこそこの樹は枝も並外れて大きいんだ」。

 王の使命を果たそうと、一本気に張り切って探索を続けていたこの使者に、あらゆる人々がそれぞれに異なる話を吹き込んだ。彼は数年に渡り旅を続け、その間も王から彼の許へ、絶えず金が送り届けられていた。

 異郷で苦労を重ねるうちに彼はすっかり疲れ果て、これ以上探し続けることは出来ないほど消耗し切ってしまった。探し求めるその樹について何の手がかりもなく、噂話の他は何ひとつ見出せなかったのだ。彼の希望の糸はぷつりと断たれた。彼が探し求めるものは、ついに見出されることなく終わった。彼は王の許へ戻ろうと決めた。帰る旅路で、彼は苦い涙を流した。

 失望しきった使節が帰路で通りかかったある土地に、非常に賢明なシャイフがいた。彼は高潔なるクトゥブの一人であった。彼は言った。「こうして希望を失った身だもの、彼の許を訪ねてみよう。そうして彼の館の敷居をまたぎ、新たな旅路への門出としよう。彼に祈ってもらおう、そうすれば私の再出発にも何かしらご加護があるかも知れない。どう転んでも、私の心を奮い立たせるものはもう何も無いのだから」。目にいっぱいの涙を浮かべ、彼はシャイフのところへ行った。まるで雲のように涙の雨を降らせつつ、「おお、シャイフどの」、彼は叫んだ、「どうかお情けを。憐れんで下さい、私は絶望の淵におります、慰めが必要なのです」。彼(シャイフ)は言った、「遠慮なく話すがよい。おまえ様を絶望させているのは何なのか、おまえ様自身は何を望み、何を考えているのか」。

 彼は答えた、「私はいと高き王に選ばれて、ある特別な樹を探し出すよう命じられた者です。世界中の何よりも珍しく、その果実は生命の水を湛えているという樹を。私は何年もその樹を探しました。ですが何の手がかりも得ることはできませんでした。お調子者たちのからかいとあざけりの他は、何ひとつ残らなかったのです」。これを聞いたシャイフは声をあげて笑った。「おまえさま、ちと迂闊じゃったの。知らなんだか、樹は樹でもそれは賢者の知識の樹のことじゃ。確かに飛びぬけて高く、飛びぬけて大きく、飛びぬけて広く枝を伸ばす樹ではあるがの。神の大いなる海を目指して四方八方に根を張り巡らせ、生命の水を吸い上げて育つ、いわば生命の水そのものの樹じゃよ。


  


『樹』と聞いて、おまえさまは形ある樹を追い求めてしまったのじゃな。それでは迷うのも道理じゃ。形あるものを追い求めた時点で、真理に背いてしまうことになるからのう。真理を置き去りにしたのでは、何を探そうが見つかりはせぬ。ある時には、それは『樹』の名で呼ばれる。またある時には、『太陽』の名で呼ばれる。ある時には『海』とも名づけられ、またある時には『雲』とも名づけられておる。どの名も、たどれば同じひとつの根源から生じる無数の働きに対して与えられたものじゃ。そうした無数の働きのひとつに、永遠の生命というのも含まれておる。根源はたったひとつじゃが、そこからもたらされる働きは到底数えきれるものではない。更にその働きのひとつひとつが、数えきれないほど多くの名で呼ばれておる。出来る限り、ふさわしい名で呼ぼうと考えてのことではあろうがの。おまえさまにも『父』と呼ぶ人がおるじゃろう?だがおまえさまが『父』と呼ぶその人も、別の者からすれば『息子』であったりするじゃろう?それと同じことじゃ。

 ここにある人物がいるとしよう。誰かからは極悪人だ、敵だと思われておる。しかし別の誰かからは、恩人だ、友だと思われておる。百人いれば百人が、それぞれ思った通りの名で彼を呼ぶ。しかし彼という人物はたった一人じゃ。加えてこれほど多くの呼び名があるにも関わらず、『これぞ完全に彼を説明した名』と言うに足る名はひとつもないときている。名なるもの、かくも頼りなきものなのじゃ。かようなわけで、名などというはかなきものを、しかも自ら課したのでもない、誰ぞ他人に課された使命として追い求める者は、やがては挫折し失望することになる、ちょうど今のおまえさまのようにな。さておまえさま、何故にいつまでも『樹』などという名にしがみつき続けるのじゃ?

『名』にこだわるな、形あるものを追い求めるな。そちらへ行けば、待ち受けるは苦い失意と悪しき運命のみ。名など捨て置け。働きそのものを見よ。そうすれば、あらゆる働きをもたらすたったひとつの根源へと至る道も見えてこようぞ」。

 人類の不和は、常に「名」と「名」の差異によってもたらされる。「名」ではなく、「名」が指し示す「実」を知り、そちらへと向かって一人ひとりが歩みを進めるとき、そのときこそ平和がもたらされることだろう。

「精神的マスナヴィー」2巻3641ー3680





群盲象を評す

2022-07-19 08:28:00 | イスラム/スーフィズム

 群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)という有名な寓話があります。


 パーリー経典ウダーナなどに収められている説話で、ジャイナ教、仏教緒派、イスラム教、ヒンドゥー教などでも教訓として使われています。


 この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場します。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、それについて語り合います。しかし触った部位により意見が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まり、やがて互いにはげしく争うようになります。


 目には見えぬ像






 暗い小屋の中に、一頭の象がいた。見世物にしようと、インドの人達がはるばる連れて来たのだった。目で見ることは出来なかったので、暗がりの中、人々はそれぞれ自分の掌で象に触れ、感じる他は無かった。


 ある人は鼻に触れ、「象とは、まるで水道管のような生き物だ」と言った。別のある人は耳に触れ、「いやいや。象とは、まるで扇のような生き物だ」と言った。また別のある人は脚に触れ、「私は象を知っている。あれは柱のような生き物だ」と言い、また別のある人は背中に触れ、「誰も分かっちゃいない。本当のところ、象とは王座のような生き物だ」と言った。


 小屋から出て来た人は皆、口々に違う言葉で説明し合った。もしも彼ら一人ひとりが、その手に蝋燭の明かりを持っていたなら、言葉の相違など生じなかったことだろう。


  ルーミー「スーフィの寓話」33話



   

インド産の象は文久3(1863)年春、両国広小路で見世物とされました。この象は江戸中の評判になり、十数組の象錦絵が飛ぶように売れたといわれています。