3 無意識
ノートに書かれた詩を読み終わるとすぐにユングの言葉が想い起こされました。わりとスラスラとやや断定的に、しかし力強く、
『もし無意識が自分自身を見ることができたなら、それが世界である。』
確かこれは「元型論」の一節にある文句のはずだけれど••と、本を取り出して読んでみれば次のように書かれていました。
『意識が自分自身を見ることができるならば、それが世界だ、と言うべきである。』
ユング「元型論」 2章-46
多少ちがっていましたが、「自分自身を見る」という言葉と「私は地であり、天である」との詩の一節からの連想で先の文句が浮かんできたのでしょうか。あの人は世界のすべてを「私である」と言っていたからです。
ただ、ユングの本で「意識」となっているところは、今でも私にとっては「無意識」というほうがピタリときます。なぜなら私は本気で信じているからなのです。
「無意識」がもし自分自身を見たならば、その時にはきっとこう言うにちがいない、と。
『私が世界である! 』
人間の顔をした光 当時は気がつかなかったのですが、のちにユングの「元型論」をていねいに読み直すと、そこにはスイスの神秘家
フリューエのニコラウスという人の神秘体験のことが書かれていました。次のような内容です。
彼は人間の顔をした
強烈な光をみたのである。
それを見たとき
彼は驚愕し
心臓がこなごなに
砕けるかと思えた。
そのため彼は
恐怖に襲われて
すぐさま顔をそむけ、
地面に倒れた•••
元型論2章―13
そこには単なる光ではなく「人間の顔をした光」とはっきり書かれています。このような具体的な表現はその信頼性が高いのですけれど、どのような顔であったかまでは書かれていません。
修道士ニコラウスはこの自分の原体験を自分に理解できるものにしようと苦労したそうです。そして自分の幻像の本質について熟慮した結果、必然的に彼の見たものは、聖なる三位一体そのもの、つまり『最高善』永遠の愛そのものにちがいないという結論に達したそうです。
さらにユングの解説によれば、この幻像を「ヨハネの黙示録」のキリスト像と全く同じ性質のものとみるのは全く正当である、と述べているのですが、この意見など私にどうもピンときません。彼らにとっては当然のことなのでしょうが、二人ともキリスト教の教義に合わせたかのような解釈をしている印象を受けます。
•••何かしら似た体験のようなので気になるのです。
*聖ニコラウス(フリューエ)1417年-1487年
彼が見た「神の怒りの顔」をもとに描いたという、中央に神の顔がある「三位一体の絵」を見ましたが、なんと仏教のマンダラにそっくりでした。
画 パウル•クレー「セネシオ」