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6 光明現象

2022-07-28 20:27:00 | 光の記憶
 6 光明現象

 神は光である。

 このような伝統があるからでしょうか、光の体験に関する手記や記録がキリスト教関係の書物に多く残されています。そしてそれらを収集して研究した心理学の書物も多くありますのでとても参考になります。

「純粋経験の哲学」や「プラグマティズム」で知られ、西田幾多郎の「善の研究」にもその名前がでているウィリアム•ジェームズの宗教心理に関するすぐれた著作である「宗教的体験の諸相」はその代表的な書であり、そこから引用します。

 光明現象•••

なんだかオカルト的な響きが感じられてきますが、これも光の体験に関する心理学の専門用語なのです。

『感覚的な自動現象であり、それが頻繁にあらわれるがゆえに、おそらく特別に注意する価値があると思われれ一形式がある。

 それは幻覚的あるいはエセ幻覚的な光明現象のことで、心理学者の専門用語で「幻視 ーphotism」と呼ばれるものである。』

ウィリアム•ジェームズ著
「宗教体験の諸相」第十講回心より 

本ではその記録が数例上げられています。


○ 不思議な光が室内をいっぱいに照らし出すように思われた。

○ 朝、わたしが野原へ仕事に行ったとき、目に映るあらゆる被造物のなかに、神の栄光があらわれていた。

 私はよく記憶しているが、私たちは麦を刈っていた。そして麦の穂も茎もその一つ一つがまるで一種の虹のかがやきに彩られているかのようであった。

 あるいは、こういう表現が許されるなら「神の栄光に輝いている」ようであった。


○ 一時間ほどの間、全世界が水晶のように透明になり、天は明るく光輝いた。
 
○ その室には火もなければ
あかりもなかった。それなのに、その室はわたしには非常に明るいように見えた。

○ にわかに、神の栄光が、ほとんど信じられないほどふしぎに、私の上に、そして私のまわりに輝いた。

 この光は八方に光を発する太陽の輝きにも似ていた。光があまりにも強くて、目で見ることができなかった。


 •••26か27の頃、帰省中のある日の夕暮れ時のことでした。私は庭に面した部屋にいて、ごろんと寝ころんで外をぼんやりと眺めていました。

 ウトウトしていたのですが、やがて妙な事に気がつきました。日が落ちているのに明るいのです。あたりは薄暗くなり庭の木もはっきりとは見えなくなっているのに、なぜか明るいのです。

「変だなあ」と思いながら居間にいくと、夕食の準備が出来ていて、ご飯とおかずが並べられていました。見るとそのすべてが光輝いているのです。茶碗から箸にいたるまで、そしてご飯はその一粒ひと粒までがキラキラと輝いているのです。そして室内は水晶のように透きとおっていて、まるで天国に入り込んだかのような気分になりました。

 この状態は一時間ほど続きました。その間私の心は平安に満たされ、清々しい幸福感に包まれたのを覚えています。そして最初に述べた光の体験のときにあらわれた光は、これと同じ光だったのです。

     
画 パウル•クレー「ホフマネスクのおとぎ話のシーン」