こんばんは。
秋の深まりをひしと感じております。
今日は奈良の富雄にお参りに行くのにバイクで参りました。
阪奈道路で生駒山を超えるわけですが、寒っ!と思うような瞬間がありましたよ。
以前お話しした石灯籠。妙政寺に残る最も古い証言者です。
慶應2年正月という石灯籠の刻文ですから、お堂は少なくとも前年暮れには建立されていることになります。
「妙見堂」は現在の場所ではなく、今の加納2丁目9番地にある精米所の東側にあったとされています。
妙政寺の西側を走る北行一方通行道路の遊歩道入り口に、加納村の古地図が掲示されています(もはやかなり読み取れなくなっていますが)。この古地図には妙見堂の位置が記されています。
では「妙見堂」が現在の位置に移転したのはいつなのでしょう。ここで妙政寺に現存する石碑・石塔に刻まれた年号からお話を進めて行こうと思います。
まずは妙政寺のある敷地ですが、これについては昭和2年10月に寄付と刻まれた石碑が、門を入って左脇に建っています。土地の寄付者として西川謹五郎・吉田幸太郎のおふたりの名前が刻まれております。
次に移転後の本堂の建立ですが、これも年月日の正確な記述が遺されていません。現在地に移転した「妙見堂」の落慶法要後の写真には門扉が写っていますが、この門に刻まれているのは昭和5年9月となっております。
新たな「妙見堂」が現在地に移転したのは昭和5年と考えてよろしいかと思います。この門扉の寄進者として中本伊之吉・西川謹五郎・吉田幸太郎・正地幸一・西川サダ・古川サダのお名前が刻まれています。
「妙見堂」は第八世馬場英龍上人の代、昭和25年に宗教法人日蓮宗妙政寺として寺号公称を得ました。
門前に妙政寺の山号と寺号を刻んだ石碑が建っています。昭和26年10月に建碑されたものです。武田竹次郎・武田保吉・武田米造・武田末造の寄進と刻まれております。
まことに残念なのは移転前の資料が存在しないことですね。
秋の深まりをひしと感じております。
今日は奈良の富雄にお参りに行くのにバイクで参りました。
阪奈道路で生駒山を超えるわけですが、寒っ!と思うような瞬間がありましたよ。
以前お話しした石灯籠。妙政寺に残る最も古い証言者です。
慶應2年正月という石灯籠の刻文ですから、お堂は少なくとも前年暮れには建立されていることになります。
「妙見堂」は現在の場所ではなく、今の加納2丁目9番地にある精米所の東側にあったとされています。
妙政寺の西側を走る北行一方通行道路の遊歩道入り口に、加納村の古地図が掲示されています(もはやかなり読み取れなくなっていますが)。この古地図には妙見堂の位置が記されています。
では「妙見堂」が現在の位置に移転したのはいつなのでしょう。ここで妙政寺に現存する石碑・石塔に刻まれた年号からお話を進めて行こうと思います。
まずは妙政寺のある敷地ですが、これについては昭和2年10月に寄付と刻まれた石碑が、門を入って左脇に建っています。土地の寄付者として西川謹五郎・吉田幸太郎のおふたりの名前が刻まれております。
次に移転後の本堂の建立ですが、これも年月日の正確な記述が遺されていません。現在地に移転した「妙見堂」の落慶法要後の写真には門扉が写っていますが、この門に刻まれているのは昭和5年9月となっております。
新たな「妙見堂」が現在地に移転したのは昭和5年と考えてよろしいかと思います。この門扉の寄進者として中本伊之吉・西川謹五郎・吉田幸太郎・正地幸一・西川サダ・古川サダのお名前が刻まれています。
「妙見堂」は第八世馬場英龍上人の代、昭和25年に宗教法人日蓮宗妙政寺として寺号公称を得ました。
門前に妙政寺の山号と寺号を刻んだ石碑が建っています。昭和26年10月に建碑されたものです。武田竹次郎・武田保吉・武田米造・武田末造の寄進と刻まれております。
まことに残念なのは移転前の資料が存在しないことですね。