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MailING!日月説法日誌

一生の宝物「法華経」の宝島の世界へあなたをエスコート
仏教経典の中の王様「法華経全28品」の完全解読に大チャレンジ!

「女の子のように思える富楼那彌多羅尼子」・・五百弟子受記品第八【第四月】

2015年08月07日 17時26分19秒 | 生活・文化
釈迦は自身で富楼那を説法第一の弟子と称賛してきただけでなく、過去九十億の諸佛の所でも同じく説法第一だったといい、そして、今回も過去七佛の説法人の中でも第一であり、今の釈迦の所の説法人の中でも第一であることが認められているといって、繰り返し繰り返し富楼那が説法第一の弟子であり、右に出る者は将来にも他にはいないことを釈迦はとても強調していますね。
   
これだけに富楼那へ大きく期待する釈迦の気持は一体どのようにして作られているのでしょうね?
法華経にの中では詳しくは載っていませんが、富楼那とは、釈迦の故郷カピラヴァッツ近郊のバラモンの家に生まれたそうです。
   
富楼那を生んだ彌多羅尼は、釈迦の最初の弟子であるという阿若驕陳如の妹であるらしく、富楼那は叔父である驕陳如に導かれて出家したといわれているそうです。
   
ところで、阿若驕陳如とは比丘のままだったようですが、この品の中で富楼那の後に共に授記されているのです。
それだけに釈迦は驕陳如比丘を大弟子としてとても大事にしていたことが考えられますが、どういうわけか声聞などの地位にはついていなかったようです。
   
これはやはり、バラモン教を信仰してきた家柄ということで、古くからの派閥論争が影響しているのではないかと思われます。
富楼那もそういう系統から出家して釈迦へ弟子入りしても、中々難しい面が多くあったのだと考えられます。
   
ところで、そういう場合に女の子のように化けさせて育てるという手法がひょっとしたら流行っていたのかもしれませんね。
富楼那の叔父の驕陳如という名も一見しては女性の名前のようにも思われますね。
それだけに、バラモン派閥から逃避することはとても命懸けで至難の業だったのかもしれません。
  
⇒ HPブログへリンク:第4-8日-實に是れ聲聞なりと謂えり-五百弟子受記品第八-十八行-二十四行/
 

「日蓮聖人解明の義と事の違い」・・方便品第二【第四月目】

2015年08月01日 17時39分15秒 | 生活・文化
義と事とは佛法に於ては古くから重要な意味があるらしく、日本の日蓮聖人が説かれた教義の中でもこの二つの意味と違いは極めて重要なのです。
   
日蓮聖人の願いは、日本中の国民すべてに佛法の願いを起させ、日本の国土に国が設立する佛法戒壇を建設し、それにより本来国の責任による佛法をもたらして日本を佛国にすることが究極の目的なのであり、その建設計画の戒壇の種類としては、「義の戒壇」と「事の戒壇」とに意味の種類が分かれているということです。
   
日蓮聖人の最終的に建設を目的としている国立戒壇という建物は、この二種類のうち、「事の戒壇」のことなのです。
つまり、最終的に全国民の一致を得て造る「事の戒壇」とは別に、その段階に至る途中の修行や普及の各地に準備段階や研磨の為にあらかじめ建てておくものを「義の戒壇」というらしいです。
   
なお、戒壇とはいろんな意味にも取れますが、通常の佛教界に於いては、階級僧を正式に認定する場所のことを戒壇といっているようです。
よって、その場所を国立で造るということは国自体で佛法の必要性を理解して国として、この認定場を設置することを国立の事の戒壇といっているようです。
   
つまり、このように義と事とは佛法上意味が異なるのですが、ここで釈迦が、舍利弗へ教えている、「種種の性相の義」とは前回に説明しました十如是のことであり、究極の佛法の意味とは誰も言葉では説明できないくらい複雑で難しい意味なのであって、精々何とか説明して見るなら十如是のようなことであると釈迦は教えていたはずです。
   
それに対し、釈迦自身と十方の佛同士のみが正確にこの事を知しめせりとは、あえてこの義を知しめせりとはせず、事という言葉を使っているところに意味があるのであり、とりあえず義に適っていることは通常の誰にもできることであり、その誰にもできる義を正確に検討し合って、真実を協議すること、つまり「事」は複数の佛同士でのみ解決できることであると釈迦は教えているのです。
 
⇒HPブログへ:第4-2日号-vol-86-世雄は量るべからず-方便品第二-十八行-二十三行/


どんなに素直で真面目な者であっても、佛の神通示現の力には適わない 【妙荘厳王本事品】その10

2015年02月26日 22時29分21秒 | 生活・文化
これは単なるお金に狂った大馬鹿同士の見栄の張り合い劇だと、多くの佛教信者はそのように完全に思ってもごく当たり前ではないでしょうか?
 
この法華経を初めて知る私たちの脅威の始まりは、巨大な財宝の豪華さや珍しさを最大の舞台装置として用い、そのまま誰もを佛教へ上手く関心づかせ、引導していく大胆かつ合理的な大乗精神の実現という意味を教えられたはずでしたね。
 
ところで、その大乗を初めて理解していくうちに私たちは知らぬ間に今ではもう実際の大金持ちに成れたと同じになっていたのでしょうか?
そんな思いがけない錯覚さえ覚えるほど、ただただ豪華表現を教えとして見せられながら、そのままどんどんエスカレートしてこの法華経のもうじき最終に近いこの妙荘厳王本事品に至り、最初から最後までもうこれで最高だろうと思わされるほど寝ても覚めても豪華荘厳合戦の佛と王の関係に遭遇してしまっているのです。
 
もうこれは滅茶苦茶、佛のお金好きの計り切れなさはには十分思い知らされたという感じになるのではないでしょうか?
またもしかしたら、この雲雷音宿王華智佛にしてみれば、この大馬鹿王族たちにはこれくらい大宝イメージを施しても、まだ佛教の本筋をわからない鈍感で無神経な者たちとしての制裁や他者への見せしめに活用しているのでしょうか?
 
そのどちらにしろ、娑婆世界というどちらかというと貧相に悩む国民俗たちが主流と思える性質にとって、これは実際の現実の心の哀しみのほうを醸し出させようと狙っているのかもしれません。
というのも、現実には金のない庶民の娑婆世界にとって、これでもう釈迦の大乗の話にはいい加減着いていけなくなり、限界が来ることこそ本音の心に立ち戻れるというところなのかもしれないということです。
 
ここまで聞かされたなら、もうどんな馬鹿でもまだ体が小さかった子供の頃の完璧な素直な気持ちに戻れたわい!となってしまいそうですから。
  
 
リンクHPへ ⇒ 第10-27日号  第一微妙の色を成就したまえり  【妙荘厳王本事品第二十七】(五十六行~六十一行)
 

決して万能ではない佛の力  【妙音菩薩品第二十四】

2015年02月23日 14時34分58秒 | 生活・文化
佛が決して世の出来事に関してすべてには万能ではないことだとと思います。
特にお金や資産というものは神や佛がすべてを掌って運用しているのではなさそうなのです。
 
すべての最初を創造した神からすれば、あえてお金や資産作りというものは人間同士だけに任せてやらせてみようという分野としてのひとつの実験アイテムに過ぎないのでしょう。
つまり、衆生同士間に於て神や佛の加護から離れて、いかに神や佛の理想とする世の中へ近づけるかが人間のみならず衆生社会全般に与えられたひとつの修練なのだと思えます。
 
ある意味では悪徳に資金や資産を独占して排他的に支配しようと、それが悪徳であるかどうかはいずれそれが巨大化すればするほどに衆生社会だけでも判ることであり、それをどう裁くかどうかは衆生社会の方法で行うか、それとも最終的に神や佛へ裁きを委ねるのかのどちらかなのでしょう。
 
よって、佛は神に準ずると私は思うのですが、神の怒りこそ一番恐ろしいものであり、神が最初に創造した通りに行かなくなることに関して、元通りにしなければならないノルマのために佛が代わって指導に君臨するという仕組みがあると思います。
 
また、衆生がしっかり敬いの心がけを持たなければ天神の数はどんどん減って行くらしいことすら、この前の化城諭品第七にもありましたが、「苦盡の道を識らず 解脱を求むることを知らずして 長夜に悪趣を増し 諸天衆を減損す」の如くにもなるということでしょう。
なお、天上界の天神には幾つかの階級をなしているようですが、人間界に近い低い階級の天神から減損して行けば、いずれは最高驚異レベルの創造神や破壊神に人間界は到達し、直接の滅亡的な裁きに至るまでになるのでしょう。
 
 
リンクHPH ⇒ 2015/01/23/第9-24日-持つて釋迦牟尼佛の所に至り-妙音菩薩品第二十四-四十七行-五十三行/
 

ポートフォリオな種を蒔こう  【序品第一】

2015年01月31日 13時48分37秒 | 生活・文化
明日からまた最初の序品第一から始まります。
皆さん再びがんばって1か月毎日続けてみましょう、よろしくお願いします。
 
さて、2月から月周りはついに10段階目へ突入します。
この日月説法が昨年5月1日から発刊スタートして以来、この2月でもう早いも
ので10ヶ月目を迎えることになったのです。
  
この10ヶ月の間でさまざまな変化があったと思いますが、時間の長さは速く思
えても、今回のこの10ヶ月におけるさまざまな成長は10年掛かったに匹敵す
るのではないでしょうか?
 
皆さんにはどんな成長があったでしょう?
私は今までになく人間関係がとても上手くいくという、明らかな大変化を生じて
きたことを感じています。
なお、Facebookを本格的に始めたのもこの時期からでしたが、私の場合はそれほ
ど多くの友達は集まりませんでした。
しかし、僅かずつでも知り合いが増えていくということはそれも僅かづつですが
さまざまなリアルタイムな情報が入り、本当に情報に疎い私でも不思議とインタ
ーネット情報などが他の人よりも急に得意になれたという自信錯覚を持つほどに
なったのです。
 
そして、自分には到底似ても似つかないと思っていたウェブライターなどいう者
にいつの間にかなっていたのです。
そして、どちらかというと完全主義で物事に懲りすぎる自分なのでして、特に新
しい分野の仕事は基本から徹底して身に付けようと完璧を狙うため、他のことは
すべて後回しになってしまい、目の前の一つに集中しだしたら他のことは一切考
えないということがかつては通常の日常でした。
 
ですから、ある一つを片付けなければその先のことへは進めなかったのです。
要は一つが終了すれば自ずと次の段階が自然に見えてくるといったことばかりを
信じていたわけです。
とにかく今夢中な事柄に別なことで混乱することは避けたかったし、いつの間に
かそういう仕事のやり方に嵌まっていたのでした。
 
実はそういうメビウスの帯のように同じ所がぐるぐる廻ってくるような一喜一憂
の挫折が常の状態から完全に開放してくれたのがこの毎日の法華経解読だったの
です。
そして、この最初の短期間に世の中や経済には「コツ」と「ツボ」の関係のよう
に最低限二つのペアになったものが一組になって、やっと稼働というものだとい
うことを知ることができたのです。
 
これは、私流に考えれば車の両輪の関係というよりも、ただ放っておけば安定し
て真っ直ぐ走るだけの両輪に対し、時に応じて方向を切り替えるハンドルの必要
さのことです。
つまりこのペアを別々にではなく、ハンドルを曲げれば両輪も同時に曲がってい
くように、同じ時に同じ目的で常に一緒に機能するものであることを心がけると
いうことです。
 
これは、積み重ねのコツばかりに全力を尽くす最中では、ツボが目の前を通りか
かっても気付かない不運を言うのです。
これは種を作っていて、それを蒔く時期を知らずに逃してしまうことと同じなの
です。
 
種を作り終えたから、それを待っていたように自動的に蒔く時期がやって来ると
いった安易な考えを捨て去ることなのです。
 
HPブログはこちら!⇒第10-1日  微妙第一なるを演説したもう  【序品第一】(六十四行~六十八行)