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一生の宝物「法華経」の宝島の世界へあなたをエスコート
仏教経典の中の王様「法華経全28品」の完全解読に大チャレンジ!

戦争という超巨大地震の余波を忘れてはならない

2015年06月26日 09時14分06秒 | 生活・経済
1945年に終結した世界戦争は既に70年を経過したわけだが、人類の引き起こした最終的な世界巨大地震だったと言っても良いだろう。
このような私たち地球上に生じた特別な衝撃や大異変は、ほんの70年の歳月程度でその影響余波が完全に終わるものではない。70年どころか今後、少なくとも200年、300年くらいは引き続き何らかの異変や影響を残し、包まれていくのである。
 
世界的に私たちの戦後70年は、闇雲にもハードの構築だけに終始明け暮れただけだったと言っても過言ではない。
それだけにソフト構築が遅れに遅れ、今後、ソフト再編プログラムの改変作業が重要となるのは必須である。
今更にハードに執着するから1歩も先へ進むことができなくなるのである。
 
決して世界巻き込んだ戦争という地球に与えた超巨大地震の痛感の痛手を忘れてはならないのである。
戦争後の長引く余波作業とは、再現をさせない改善の知恵を得る手直し作業のことである。

経と法の関係◇◇属累品第二十二その2

2015年06月21日 23時36分49秒 | 生活・経済
経と法の関係をたとえれば、真理と真実、原理と現実、つまり、理と実の関係であるということができるのではないでしょうか。
   
ところで、仏・法・僧の3つのことを三宝といいます。
仏とは佛さまであり、法とは阿耨多羅三藐三菩提などの法、僧とは僧侶のことです。
この3つの宝は、その意味が何であるかをとりあえず詳しく知らなくとも、宝石のようにただ持っていたり、接しているだけで、ほんのそれだけでも大きな効果があるらしいのです。
   
ですから、修行を積むと阿耨多羅三藐三菩提を得れると書いてありますが、阿耨多羅三藐三菩提の意味が解からなくても得ることができるものだという解釈ができると思います。
   
実は、この三宝の中には経、即ち、経宝はありません。
経はしっかり修学を積んで理解しないことにはその真理を得ることができないから、身に及ぶ大きな効果も生じないのでしょう。
ですから、佛法の宝とは、ある一体の徳を三つに分けて三宝としたといわれますが、その一体の徳というものが経の正体なのではないでしょうか?

第2-22日 Vol.50  是の如く三たび作す  【属累品第二十二】 (四行~八行)
 

経済と国造りによる法華経の関係・・【安楽行品第十四】その2

2015年06月12日 14時36分42秒 | 生活・経済
たくさんある佛教経典の中で、現実の国の運営のあり方と併合して内容が作られているのは唯一法華経だけだということです。
   
昔から国造りの運営に直接関わるのは王や神々であるようにこの法華経からも見受けられます。
その現実の国造りの中で、佛法者としてはどのように過ごし、関わっていくべきかの方法を示したのが今品の行処・親近処なのかもしれません。
   
しかし、この簡単にも思えがちな行処・親近処のことは、古くからの一流の菩薩にも解からなかった内容であるようなのです。
つまり、これは釈迦が亡くなる寸前に智慧で示された、これからの未来の直接の生き方であり、もし本当にこの法華経の内容が確実に実践されているならば、釈迦が入滅前に立てた作戦はそのまま現代の国と宗教の関連性になって活かされているということでしょう。
   
ところが、皆さんはこの法華経を少しでも読んでみてどう思われますか?
今の世界や国の情勢などが、ただうわべの形式的な宗教概念だけで成り立っているとしか思えないのではないでしょうか。
少なくとも、この私たちの日本国は、懸命にこの法華経を、たとえ武士や貴族の秘密に於ても習得してきた歴史があるのは確かなことです。
   
仏心無くして、経済はないと私はいつも思うのですが、経済という、読んで字の如しお経が済んでいてこそのことだと思いませんか?
この複雑化した現代の経済に神や佛の智慧の戦略を持たず、その勉強もいつまでも済まさずにいて、どうして人間らしい幸福を勝ち取る経済などこの世の中にありましょう。
 
第2-14日  四法に安住すべし  【安楽行品第十四】(四行目~十行目)
 


『見たこともない仏様は恐い真実』 藥艸諭品第五その3

2015年06月04日 19時00分00秒 | 生活・経済
通常、私たちは仏様を見たことはありませんよね。
もし見たことがあるとしたら、それは幽霊や亡霊現象ということになりますよね。
ひょっとしたっら、その通りであって、佛の真実の姿の状態とは幽霊や亡霊そのものだったりするかもしれませんよ。
   
しかし、私たちが通常に教えられている仏様のイメージとは、誰に対しても公平でどこまでも優しい、どんな罪も許すような心の広く平穏な印象ですよね。
   
では、どうして私たちは仏様がとても優雅で心優しいイメージだと印象付いているかといえば、それは何を隠そう、お寺の住職さんのことを仏様のイメージと見なす傾向があるからでしょう。
   
ところで現実には、実際の仏様がただ優しいだけの存在であれば、私たち衆生への教えとしては何の存在する意味がないのと同じなのではないでしょうか。
実際は、お寺の住職さんがたとえ誰にも優しく説法して佛法を人々に説いておられたとしても、究極にはその存在はなくても人々は生活していけるとは思いますね。
   
それとは逆に、威張って怒鳴ったりしてお寺の必要性やお布施のことばかりをくどくど命令調に人々に要求してばかりいる住職さんが居たとしても、それもまた、そういう素性が原因で地域の人々の生活が成り立たないということもありませんよね。
   
ということは、地域のお寺様でしたら、どちらのタイプが必要性や存在性が高いかといえば、どちらかといえば、怒って命令調の住職さんの方が人々からすれば重宝と考えられ易いのではないでしょうか。
   
しかし、現実的には住職さんもそう嫌われ役では暮らし辛いということで、何とか好かれるタイプになろうと努力なさるのでしょうね。
   
そういう努力が実って、仏様といえばお寺様その者のことのように思うような習慣が出来上がっているだけだと思うのです。
   
このように考えますと、案外お寺様ではない本来の佛様とは、恐かったり不気味であるように思える方がこの世の暮らしにとっては有益なようにも思えてもくるのです。
佛様のお姿がたとえ幽霊や亡霊現象のようなものであっても、そのほうが真実に近いということになるのでしょうね。
   
ところで、如來が降りてきて、我の名は、如來・應供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛・世尊であると自ら唱えたら、さぞ恐いイメージですね。
   
恐いことが即ち、真実らしさを垣間見ることと同じように思えます。
   
第3-5日 Vol.61  世に出現すること大雲の起るが如く 【薬草喩品第五】(八行~十八行)