私は幕末の有名な坊さんといわれる良寛さんが修行で過ごした地域で生まれ育ちました。
しかし、今まであまりにも良寛さんの名前は有名で知らない人はないくらいな人だと思っていたわりには自分自身は何も知らなかったことを不思議に思えてなりません。
今私が住んでいる家の近くに良寛資料館が出来たのは私が高校一年生になったばかりの頃でした。
実は私はその頃はまだ別な隣町に住んでいてその2年後くらいに今の所へ引っ越してきたのでした。
その当時のこの町はとても活気が無い何故か殺風景なだけの町でした。
この町は良寛さんが修行した国上山へは自転車で20分くらいで行ける所にあります。
そしてこの町は、江戸から続く三国街道の最終点の海の町、寺泊の一つ手前になる街道町であって分水町といいましたが、数年前の合併で燕市となりました。
なぜ分水町といったかといいますと、日本一長い川の信濃川が通っている地域であり、信濃川のたびたびの大氾濫で水害に脅かされていたため、
江戸時代から治水普請を地元の人間は長らく幕府に願い出ていたのですが、やっと明治時代になって大掛かりな分流工事がなされ、新たな新信濃川として支流を作った所の町なためにその頃から分水町という名前になったのでした。この河川工事は当時は東洋一の大工事といわれたそうです。この新信濃川は国上山の脇を通るように作られました。
この工事の請願は江戸時代中期から長らく行われてきたもので、良寛さんが国上山で修行されたのは江戸時代末期ですからほぼこの治水工事に対し、良寛さんは水害にあえぐ地元農民の苦しみと十分関わっていたはずです。
また、国上山のある国上村の隣の寺泊は古くからの港町でありますが、鎌倉時代に順徳天皇や日蓮聖人が佐渡ヶ島へ流された港だということは以外に知られていないようです。
日蓮聖人といえば法華経普及の第一人者としてあまりに有名ですが、良寛さんといえば実は何で有名なのだろうと考えても今まで解らなかったのです。
書の上手さでは有名ということですが実は実際に書を学び出したのは国上山に過ごしていた50歳くらいの時からだったという話です。
若く出家し曹洞宗の寺の師にもついたが、その後転々と放浪し何をして良いかわからないままに40歳くらいの時、故郷越後へ戻って来られたらしいです。
国上山の五合庵に住み、そこから少し登った所に真言宗の国上寺があり、現存の寺では越後最古といわれています。しかし、良寛さんはその国上寺には入らず孤高に過ごしていますが、過ごした五合庵は良寛が仮住する前は国上寺住職の隠寮だった庵だそうですから、あばら屋の庵といえど、そこに住まわされるだけの待遇は高かったのでしょう。
また、曹洞宗の僧であって良寛和尚といわれているわりに実は「和尚」という法位さえ貰っていない事実は曹洞宗の宗門から疎外されていたことによるからでしょうか。
そして、良寛さんは法華経をこよなく愛したらしく、法華経からお釈迦様のここが良い、ここが悪いを自由に表現できた人でもあったのです。
また、五合庵で20年位修行した後、晩年そのすぐ下にある乙子神社の宮守の空庵に過ごすことになりますが、そこでは偏澄という若い弟子と二人で過ごしていたということも初めて知りました。その偏澄はなんと鍛冶屋の息子であったというから、良寛さんへの謎は一層深まるのです。
これが世に言う良寛研究というものなのでしょう。
偏澄は、良寛さんが亡くなると共にまだ20代の若さで分水町地蔵堂の願王閣の主となります。願王閣とは平家滅亡の壇ノ浦の合戦の後、この地へ渡ってきた西行法師がもたらした地蔵様を祀った堂であり、そのいわれで地蔵堂という町が出来ました。
何故、鍛冶屋の息子が数年間、良寛さんに弟子入りしただけの若さで町の主要な歴史の主になれるのか、謎は深まるばかりです。
しかし、今まであまりにも良寛さんの名前は有名で知らない人はないくらいな人だと思っていたわりには自分自身は何も知らなかったことを不思議に思えてなりません。
今私が住んでいる家の近くに良寛資料館が出来たのは私が高校一年生になったばかりの頃でした。
実は私はその頃はまだ別な隣町に住んでいてその2年後くらいに今の所へ引っ越してきたのでした。
その当時のこの町はとても活気が無い何故か殺風景なだけの町でした。
この町は良寛さんが修行した国上山へは自転車で20分くらいで行ける所にあります。
そしてこの町は、江戸から続く三国街道の最終点の海の町、寺泊の一つ手前になる街道町であって分水町といいましたが、数年前の合併で燕市となりました。
なぜ分水町といったかといいますと、日本一長い川の信濃川が通っている地域であり、信濃川のたびたびの大氾濫で水害に脅かされていたため、
江戸時代から治水普請を地元の人間は長らく幕府に願い出ていたのですが、やっと明治時代になって大掛かりな分流工事がなされ、新たな新信濃川として支流を作った所の町なためにその頃から分水町という名前になったのでした。この河川工事は当時は東洋一の大工事といわれたそうです。この新信濃川は国上山の脇を通るように作られました。
この工事の請願は江戸時代中期から長らく行われてきたもので、良寛さんが国上山で修行されたのは江戸時代末期ですからほぼこの治水工事に対し、良寛さんは水害にあえぐ地元農民の苦しみと十分関わっていたはずです。
また、国上山のある国上村の隣の寺泊は古くからの港町でありますが、鎌倉時代に順徳天皇や日蓮聖人が佐渡ヶ島へ流された港だということは以外に知られていないようです。
日蓮聖人といえば法華経普及の第一人者としてあまりに有名ですが、良寛さんといえば実は何で有名なのだろうと考えても今まで解らなかったのです。
書の上手さでは有名ということですが実は実際に書を学び出したのは国上山に過ごしていた50歳くらいの時からだったという話です。
若く出家し曹洞宗の寺の師にもついたが、その後転々と放浪し何をして良いかわからないままに40歳くらいの時、故郷越後へ戻って来られたらしいです。
国上山の五合庵に住み、そこから少し登った所に真言宗の国上寺があり、現存の寺では越後最古といわれています。しかし、良寛さんはその国上寺には入らず孤高に過ごしていますが、過ごした五合庵は良寛が仮住する前は国上寺住職の隠寮だった庵だそうですから、あばら屋の庵といえど、そこに住まわされるだけの待遇は高かったのでしょう。
また、曹洞宗の僧であって良寛和尚といわれているわりに実は「和尚」という法位さえ貰っていない事実は曹洞宗の宗門から疎外されていたことによるからでしょうか。
そして、良寛さんは法華経をこよなく愛したらしく、法華経からお釈迦様のここが良い、ここが悪いを自由に表現できた人でもあったのです。
また、五合庵で20年位修行した後、晩年そのすぐ下にある乙子神社の宮守の空庵に過ごすことになりますが、そこでは偏澄という若い弟子と二人で過ごしていたということも初めて知りました。その偏澄はなんと鍛冶屋の息子であったというから、良寛さんへの謎は一層深まるのです。
これが世に言う良寛研究というものなのでしょう。
偏澄は、良寛さんが亡くなると共にまだ20代の若さで分水町地蔵堂の願王閣の主となります。願王閣とは平家滅亡の壇ノ浦の合戦の後、この地へ渡ってきた西行法師がもたらした地蔵様を祀った堂であり、そのいわれで地蔵堂という町が出来ました。
何故、鍛冶屋の息子が数年間、良寛さんに弟子入りしただけの若さで町の主要な歴史の主になれるのか、謎は深まるばかりです。