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経典の中の王様「法華経全28品」を完全に解読しよう
故はイカン

佛と佛陀の違いは人間の為の塔(戒壇)建設にある   【如來神力品第二十一】

2015年02月20日 14時25分36秒 | まちづくり
以前、私はこの如來神力品に現れている諸佛や救世者の示す神力シーンは、何だかズッコケジェスチャーのように思えると言ってましたね。
 
これを昨日の常不軽菩薩品に照らして考えますと、昨日の部分で私はなぜ釈迦は他人、つまり衆生の中でも特に人間の為に法華経を説くことは特別に有利なのかについて、それは佛陀の修行との違いを明確に示す為だったのではないかと推理しました。
 
佛陀とは、たとえば最終品の普賢菩薩などが目標に目指していた出世と思うのですが、人間以外の六道四生の衆生すべてを引き連れて教化する方法だと思うのです。
それに対し釈迦の法とは、将来への巧妙な佛法戦略により人間だけを超勝れた法師に育て上げ、他の衆生を皆、菩薩である法師を尊ばせ随わせるという戦法と考えられるのです。
 
よって、先に示した諸佛や救世者のズッコケジェスチャーに思える広長舌や彈指の神力は、六道衆生すべてに対する神通力の示現アピールで、それが衆生が日頃支持する佛陀の示す神通力ではないかと思えてきました。
ですから、これから法華経を屬累される人間としての菩薩たちと一般衆生の格差をあえて示し、法華経を直接受持する菩薩たちへはお別れの儀式のように演出されたものではないかと思うのです。
 
つまり、ここで法華経を属累される菩薩たちは恐らく佛陀を目指すのではなく、法師を目指す人間として成佛を目指す佛道を修行する者だと思うのです。
ですから、それら法師を目指す者は、この世全般の指導に残る佛陀とは別れ、その代わりに多宝佛等が主導する佛塔を建設してそれを佛と見なして崇める修行習慣を創り出す者たちだと考えられるのです。
 
そのためにその者たちにとっては法華経による自主的な修行が主であって、法華経に対してもはや佛や佛陀の指導を直接に煽る者から卒業する者と見なされるのだと思うのです。
そして、佛塔建設とは人間に対してだけの仕組みであって、一般の動物などの衆生がある意味では恐れて近づかないミステリーサークルのような施しが狙いなのかもしれません。
 
このようにして、たとえば日蓮聖人が日本国内に法華経修行者のための一つの国立の戒壇を建設して佛国とすることを主たる目的としたというのも、当時の鎌倉幕府の飢餓や畜生以下に陥った崩壊の荒んだ濁悪な社会状況を正す為、先ず確かな道徳倫理の進んだ人間中心用の国に直すことが何より先決と判断した為ではないかと考えられると思います。
 

【リンクHPへ】 ⇒ 第9-21日  是の經を屬累せんが故に  【如來神力品第二十一】(四十七行~五十行)
 

如來の演ぶる所の經典は 【如来寿量品第十六】

2014年11月15日 18時10分53秒 | まちづくり


 
★★ きょうの謎!
 
その謎1:経典の教え方としては、如来自身のことだけでなく他の者や事柄も示して
     いるという意味はこの経典は如来の教えだけではないということでしょう
     か?
 
その謎2:「實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くな
     らず」とある四つの非ずとは「罪」という字に関係があるでしょうか?
 
 
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■■第7-16日号
 
 如來の演ぶる所の經典は
 
  【如来寿量品第十六】
  (三十四行~四十行)
 
■■今日の一偈一句
 
 モロモロ ゼンナンシ ニョライ ノ  トコロ キョウデン ミナシュジョウドダツ   タメ  アルイ コシン
 諸 の善男子、如來の演ぶる所の經典は、皆衆生を度脱せんが爲なり。或は己身を
 
 ト  アルイ タシン  ト  アルイ コシン シメ  アルイ タシン シメ  アルイ コジ シメ  アルイ
 説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は
 
 タジ シメ  モロモロ ゴンセツ  トコロ ミナジツ  ムナ     ユ エ イカ  ニョライ ニョジツ
 他事を示す。諸 の言説する所は皆實にして虚しからず。所以は何ん、如來は如實
 
   ガイ ソウ チケン  ショウジ モ  タイ モ  シュツ       マタザイセオヨ メツド
 に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の
 
 モノ   ジツ アラ  コ アラ  ニョ アラ  イ アラ    ガイ ガイ ミ  ゴト
 者なし。實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くなら
 
   カク ゴト  ジニョライアキラ  ミ シャクミョウ
 ず。斯の如きの事、如來明かに見て錯謬あることなし。
 
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  1. 今 日 の 解 読 !  (苦)
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諸々の善男子よ、如來の演説する所の經典は、すべて衆生を度脱(どだつ:悟りに導
 
く)させるがためである。或時は己の立場を説き、或時は他の立場を説き、或時は己
 
の立場を示し、或時は他の立場を示し、また或時は己の事を示し、或時は他の事を示
 
す。これら諸々の言説する所はすべて真実であり虚であってはならない。なぜかとい
 
えば、如來は如實(にょじつ:ありのまま)に三界の相を知見できるからである。生
 
死のどちらが退くなのか、どちらが出るなのかは区分あることなく、また在世する及
 
び滅度する者の区分はなし。實に非ず、虚に非ず、如(にょ:何かの様・似ている 
 
様・ごとし)に非ず、異に非ず、三界の者が三界を見るが如くではない。このような
 
事を、如來は明かに見て錯謬(しゃくみょう:まちがえること・あやまち)あること
 
はない。
 
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  2. 今 日 の 説 法 !  (集)
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今日の経文の始めに書かれている、「如来の演ぶる所の経典」というのはとても重要
な意味があります。
これは、如来が自身のやり方で説法を宣説することとは異なり、この法華経の経典を
演説するということにあるのです。
 
演説するとは聞き手に上手くわかりやすく演出を用いて解説するということですね。
ですから、如来がただワンマンにして一方的に命じたり主張する宣説とは違うという
ことです。
 
つまり、最高に完成された高度な教科書である法華経を学習の第一に沿え、その法華
経を習得させたいために如来が教師となって代理で教えているということです。
そして、その法華経をなぜ教えるかといえば、すべての衆生を度脱、つまり悟りへ導
きたいからということであり、法華経を知ることが悟りへの道なのでしょう。
 
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その法華経の教え方としては、如来自身の立場を説明することもあれば、他の立場を
説明することもあるし、また如来自身がその姿を現すこともあれば、他の姿を現すこ
ともあるし、あるいは如来自身の出来事を現すこともあれば、如来以外の出来事を現
すこともあるということです。
 
そして、如来が諸々の言葉で説明するところはすべて真実であり虚ではない。その理
由は、如来はあるがままにそのままこの三界の本質を見抜くことが出来るからです。
この三界において生きる死ぬという概念にそのどちらが退きか、それとも出て行くの
かの区分は無く、またこの世に残る者と滅度する者との違いも無いのです。
 
これらの説明は、真実では有り得ず、虚でも有り得ず、何かの様でも有り得ず、異な
っているものでも有り得ない、三界の者がそのまま三界を見る実感とは違うのです。
このような事は、如来が明瞭に観察していてまちがいはないのです。
 
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  3. 今 日 の 謎 !   (滅)
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その謎1:経典の教え方としては、如来自身のことだけでなく他の者や事柄も示して
     いるという意味はこの経典は如来の教えだけではないということでしょう
     か?
 
その謎2:「實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くな
     らず」とある四つの非ずとは「罪」という字に関係があるでしょうか?
 
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  4. 今 日 の 知 識 !  (道)
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前回、この品で私は、釈迦の決断した自らの身をもって佛道修行を極めて見せる手段
は素晴らしい実践力であって、生きた教科書のようにその手っ取り早く分かり易い男
らしさや地道な根性が釈迦の大きな特徴であるように伝えました。
 
しかし、釈迦の判断したこの如来手段とは、結局は過去どの如来も皆同じ事をしてき
たようであり、如来そのもののあるべき決まりごとのように思えてきました。
つまり、釈迦が如来として衆生に実際に佛道修行の難しさなどを身を持って示して教
えてきたこと自体は、そのまま如来そのもののいつもの実態ということのようです。
 
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ですから、釈迦こそこの法華経をどの如来よりも詳細正確にコピーして忠実に、ある
べき如来そのままに演じてきたのではないかとも思います。
そして、おそらくどの歴代の如来も到達できなかった法華経のすべての真実を悟るこ
とが出来たのが釈迦だったのではないでしょうか。
 
よって、釈迦ももともとから法華経を完全に理解した後にこの世へ如来として出現し
たのではなく、きっと、いつの時代の如来も手っ取り早くこの世の衆生を救う目的だ
けを目指してとりあえず出現し、その後に修行を積んで最終的に法華経と巡り会って
いくというシナリオであるのでしょう。
 
ですから、釈迦はどの如来も最初の目的は皆同じだったといっていると思うのです。
 
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  5. 今 日 の 解 脱 !  (悟)
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この私たちの住む三界こそ法華経の通りにはなっていない世界なのだと思います。
ですから、如来はこの三界に出現し、その有り様のありのままを観察するという慣わ
しなのでしょう。
いつもの如来のその観察の結果、この三界の実質は、生と死の界いが無く、生きてい
る死んでいるどちらの者でもないということなのでしょう。
 
そして、「實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くなら
ず」とありますが、これは一体何を言おうとしているのか?まるで意味がわかりませ
んが、たとえばこの四つの非ずについてですが、これは「罪」という漢字につながり
が無いものかと考えてみました。
 
そのように四つの非ずを罪として考えて見ますと、これが法華経の通りでない私たち
三界の罪ということになるのかもしれず、この三界の罪のために如来が出現してくる
と考えることができ、そして、如来とは法華経という法律書を片手にこの三界を裁く
裁判官を役割るためにやって来るのではないかと考えられるのではないでしょうか?
 
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そして、「三界の三界を見るが如くならず」とありますが、この私たちの三界には罪
ある者を処罰する裁判所が設置されていますね。
そして、それはすべて私たち衆生のつくったこの世の法律で運営されているのです。
しかし、その法律は法華経ではないわけですから、三界の者がこの三界を観察する如
くではないというのが如来の知見であり、それが法華経だけの真実なのでしょう。
 
ところで、罪とは犯すことで初めて犯罪となるわけですよね。
ですから犯していない罪が如来の知見するこの三界の四つの非ずの事にも思えるので
す。
つまり、この三界の状況は確かな罪な状態である、しかしそれを勝手に犯して非ずこ
とを有るなどとしてはならないし、三界の者が三界を裁いたり、どのようにするとい
うことではないと釈迦は言っているのではないでしょうか?
 
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  6. 今 日 の 振 り 返 り !(脱)
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今日の私の四非の考えはいかがだったでしょうか?
真実では有り得ないことを真実と言ったり、嘘でもないことを嘘であると認めたりす
ることは確かに犯罪ですよね。
 
言った言わない、認めた認めない、などの口論をその都度にどちらが良いか悪いかを
決定しようにも、そのどちらかが確かに法華経に合致しているかが大事な結果なので
すね。
ですから、そのどちらでもないと保留する状態こそ、如来の知見に任せている状態と
言えるでしょう。
 
私たちが通常する判断はそのようにどちらのケースも同時に保留して同時に考えるこ
とが精神状態を円滑にしている、もっとも頭脳や身体のバランスを保ちやすい、良好
に活性化された状態といえます。
 
ですから、自分勝手にどちらか一つの決断に邁進するよりは、別々のケースや考えを
同時平等に運用する心身のあり方を日常と心がけることが、いずれ一つの判断が自然
に現れてくることになるのです。
 
ですから、学問であるなら、たとえば小学生五教科目を平均バランスよく平等に学ぶ
ような方法が、もっとも心身ともに生長する喜びを得ることが出来るでしょう!
 
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。
末永くご愛読いただけますよう、今後とも何とぞよろしくお願いいたします。
 
  (ぶっけん)
 

まちづくりと都市計画

2014年01月13日 22時25分34秒 | まちづくり
あけまして おめでとう ございます ! 今年も宜しくお願いします。

まちづくり活動は、今ではどこでも知られるようになりました。日本全国あちこちが市町村合併だったもので、それに付随した必要性で、誰もが関心を持つものだったのでしょう。私も4,5年前、2年くらいかけた市民による、まちづくり条例作成検討委員として月に一度の行政を交えた市民会合に参加していました。私たち合併後の新市では、大学教授の専属講師を招いて様々なことを検討していたわけですが、今になって、都市計画としてすでに定まっている地域性については何も検討材料としては話合いに現れなかったことが気がかりの事と気づきました。これははっきりいって誰もが忘れていた事でしょう。忘れていなかったのは市役所の都市計画課だけだったといえばその通りなのでしょうが、2年間の打ち合わせ期間内に一切それが触れられなかったことが気がかりなのです。

市役所の職員さんも全委員の半数くらいは参加して来ていたわけですから、市民の地域まちづくりと市役所の都市計画地域との大きな、ある意味ではまったく逆な考えにもなる両者のギャップを職員さん自体も埋められないということであります。参加した職員さんのみならず、市役所職員全体が市役所の都市計画課の地域づくりと一致せずにいてどうしましょう?この問題が市民にとって都合の良いコミュニケーションの題材となりえるでしょうか?皆口を瞑ってしまう、そんな恐さはどう訂正すればよいのでしょうか?忘れるしかない、都市計画による地域をソフト面で破壊するしかない、都市計画とはただ土地・建物・施設などのハード面だけでしかないと決め付ける市役所の態度はもう崩壊するしかないでしょう。これぞ、古来からの娑婆な世界!?

Nozbe

国上寺渋谷住職さんの法話術

2012年11月06日 23時41分11秒 | まちづくり
今日は、地元の街、分水公民館で開かれた国上寺の渋谷住職さんの法話講演会を聞きに行きました。
渋谷住職さんをご拝見できたのは初めてでしたが、ご老人ばかりの集まりで「つばめ目耕会」という垂れ幕があり、「いのち」という題名でした。
良寛さんの話題は残念ながら出なかったのですが、私は国上寺の歴史が知りたくて少し遅刻して参加しました。
地元の方言を上手くおかしく使う住職さんの話し振りには聞いている誰もが全く退屈しません。
近頃は、学校の先生などが生徒を教える言葉がどうしても味気なく思えて、日頃私は何か物足りなく思えているのです。
ただ、知識をそのままの用語で教えても先生と生徒とで全く同じ知識の同等な共有者となるだけに思え、先生の存在価値観というものが失われるようで虚しく思えます。
住職さんの話し方は通常の住民感覚でありながらも、本当は使いたくない庶民的方言を意図的に使って笑わせます。
それが本当の習慣や癖だったらつまらないと思いますが・・・・。
何気ない方言らしい表現用語から、そのまま歴史背景や鮮やかに伝わってきて、失礼かもしれませんが話の内容よりも座を盛り上がらせることのほうがずっと過去の歴史や今の社会問題の意味が浮き出てきて分りやすく感じられます。
習慣的に使っている方言を、あえて意図的に表現してみるところに住職さんの素晴らしさと冴えが伝わってきます。
話の内容の受け取り方は各々でも、全体が同じ一体感覚で集えるという素晴らしさは末永く残していきたい郷土のかけがえのない風土だと思います。
宗派や人生観の違いを超えた素晴らしい説法だったと思いました。
きっと、良寛さんもそんな環境で修行したのでしょうし、今も昔もそのままで、長い人生経験者の皆様には何ら変わりはないのだと思います。
最後に、今の自分はまだまだ未熟者だと自分で思える人こそ頭の賢い人間なのだという教えにはまったく感動しました。

正直な心に無駄は無い

2012年10月11日 22時40分34秒 | まちづくり
自分に正直に生きる者に無駄は無い。
必ず道は開ける。
人生をより多くの時間を自分のために使いたいだろう。
正直は我がままかもしれない、しかし、自分を人生を活かしたいなら正直を貫くことに勝るものは無いだろう。

我が故郷の雄、良寛さんはどうだったろう?
人一倍、徹底した律儀だっただろうが、はたして自身に正直さはあっただろうか。
良寛さんは苦しい修行の人生の最後に律儀さをとったか?、それとも正直さをとったか?
律儀は元々自分の中に生まれつきあるじゃないか、だったら今この時代を正直に生きることがどんなに難しいことか。
正直は確かに得をすると思う。それだけに生き方は難しい。正直になれといわれてもなかなかなれない人が多いのも当たり前のことだ。
律儀と正直とはだいぶ違うんではないのか?、その違いを理解できて実行できたら大人の中の大人ではないのか。