ところで、女人の罪障とは今だ佛法上の大きな疑問点です。
たとえば、釈迦に対して、「念を作さく」という表現がたまに出てきますが、この念を作さくとは、言葉に出さずに心にそう思ったということらしいです。
この念を作さく、に対して釈迦はその都度、鋭く感じ取り、それに対する答えを与えているようですが、この念を作さく、と表現されているのは、五百弟子受記品の富楼那彌多羅尼子や授學無學人記品の阿難、新發意(しんぼっち:新たな実践者)の菩薩八千人、また、今回の品では耶輸陀羅比丘尼、そして、八十萬億那由他の諸々の菩薩摩訶薩などです。
これらは皆、神通力を具足している菩薩、或いは将来菩薩となる者たちです。こういう神通力とはどうも女人の罪障と関係しているのではないでしょうか?
実際の菩薩はどうやら男子しかいないようですが、神通力を正しく使えるのは男子だけと考えますと、もし富楼那が女人である場合、どんなに説法人第一であっても、おそらくそれは釈迦のおだてであって、実際は罪障の力による上手さとも考えられますし、実際は富楼那が成佛するには遠い先ということで、弥勒菩薩と同様に見せ掛けだけの気品なのかもしれませんね。
ということは、女人の罪障とは神通力の使い方がまともではないという意味で、どんなに正しい者に見えようとも間違いが多く、実際は大した力ではないとして見下さなければならない実際の調整や都合によるのかもしれませんね。
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どうやら、昨日の提婆逹多品で少し話しました商人気質のことに当てはまるかもしれませんが、ただ単に清く正しく見えるだけでは、何か一方に極端に偏りがありすぎてアンバランスな判断力であったり、他へはさほどあり難いことでもなさそうな性質があるのかもしれません。
ここで少し、五官と五感についての話をして見たいと思います。
五官とは、人間のもつ五つの感覚用器官の意で、漢方においては人間の顔の上にある五つの感覚用の器官を指し、目・耳・鼻・口・舌であるそうですが、一般に日常用語での五感を感じる器官としては、目・耳・鼻・口・皮膚であり、各々に視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感で区分したものらしいです。
ですから、五官とは五感を感じる部位の器官ということになるでしょうが、両者は受け止め方としては多少違いますね。
つまり、五官は五つの器官、そして五感は五つの感覚ですよね。
また、五官は感覚を意識するもので、五感とは感覚が起きるというの意味に違いがあります。
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つまり、神通力を正しく使いこなせるということは、この五官も五感も両方が正しく機能しているということかもしれません。
たとえば、子供と大人を比較して見ますと、まだ社会慣れしてない子供の感覚は新鮮ではじめて知ることへの興味や幸喜心が強く関わっているのではないでしょうか。
子供は真新しいことへの感性が主であり、社会慣れした大人の感覚は子供とは少し、或いはだいぶ違うものかもしれません。
ですから神通力が正しく使えるかどうかは子供と大人ほどの能力の差があると考えられるようです。
たとえば、それが商人気質ですと、五官は磨かれ続けても、五感の方は、大人になるに随って滅んでいっているのではないかと思え、特に対人関係における五感の感じ合いは自然状態から離れていっているかもしれません。
そのように一方は磨かれていっても、逆の一方は衰えていってしまうアンバランスが商人タイプには実は多いのかもしれません。
⇒ 関連ブログ:
「釈迦の姨母驕曇弥は一体いつ授記されていたのか?」・・勧持品第十三【第四月の1】
⇒ 本日のHPブログ:
第4-13日号-独我が名を説きたまわず-勧持品第十三-二十一行-二十七行/