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みなさんこんにちは。
小田原の観光名所 海鮮料理が人気|小田原早川漁村です。
今日は小田原の歴史上一番の大事件小田原攻めを見てみましょう
豊臣秀吉は『小田原攻め』で北条氏政とどう戦ったのか?
北条軍は最初から、支城の諸将の主力を小田原城に集めており、難攻不落の小田原城の籠城戦を決めていたようです。
◎小田原城の規模
この城は外殻の『総構え』と呼ばれる形式で城下町全体を空堀と土塁で取り囲んでおり、総延長は9㎞にもおよび、後の秀吉の大坂城の8㎞を凌いでいました。
つまり小田原城下をすっぽりと防衛線が覆っている形になっていたのです。
城内には広大な耕作地もあり、長期間に亘る籠城戦にも問題なく対処の出来る巨大な要塞でした。
過去に、1561年に上杉謙信が10万を越える関越連合軍で、1569年には武田信玄が2万5千の兵を率いてこの城郭に攻めかかっておりますが、謙信は1か月ほどで、信玄は数日で囲みを解いており、正に難攻不落の堅城でありました。
◎小田原落城に至った原因
昔から言われていますが、籠城戦を勝ち抜くにはある条件が必要です。
1)援軍が来て包囲軍と戦ってくれること
2)攻め手に事情が生じて撤退せざるを得なくなること
何らかの理由で包囲を解いてもらわない限り籠城は終わらないのです。
関東の雄にまで北条氏を大きくして来た氏政はまさに戦国の申し子で、立派な武将でした。
ですから当然、このことを北条氏政は知っていたはずです。
要するに、秀吉はこの籠城軍が勝てる条件を完全に潰してから戦いに臨んでいたのです。
私たちは今、後の秀吉の力を十分理解していますので、北条氏政の籠城判断に関して、、、
名家出身で実録高が250万石に達していた氏政は百姓出身の秀吉を侮り、甘く見ていたと評しますが、いったい彼をしてそうさせた本当の理由は何だったのでしょうか?
それは、、、
北条氏政は徳川、東北の伊達と3国連合を組めば、秀吉の囲みを破れるとの確信があったのではないかと思います。
徳川に対しては姻戚関係があり、伊達は独立色が強く、秀吉の出した命令も破っており、北条と勢力圏が接近していることから、北条の誘いに乗っていた可能性はあります。
事実小田原の陣への参戦もかなり遅れて5月に参陣しています。
秀吉の籠城に対する経済戦は百も承知だったと思うのですが、ここで氏政の大きな誤算があるとすると、家康の遠謀深慮が見抜けなかったことだろうと思います。
家康の離反と正宗の連れ離反は氏政をして厭戦気分にさせた大きな要因だと思います。
あとは、1585年に関白宣下を受けたことにより朝廷の権威をバックにした秀吉に、諸侯が臣従し始めたことを氏政が重く見なかったことでしょうか。
家康はその辺りの計算をしていたのではないでしょうか。
結果、、、
天正18年(1590年)7月5日に北条氏直が降伏して小田原城は開城となり、この戦国の名城もわずか3か月ほどで落城してしまいました。
戦国の覇者たちの強烈な武力攻撃にも耐えたこの巨城も、政治力によって落城させられたと云うのが真相のようですね。
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