「聖書学」ってのは面白い学問です。
徹底的に聖書を「相対化」するのです。コーランに対してこれはできません。でもキリスト教聖書にはできる。
もともと
聖書がなくても、キリスト教は成立するのです。キリスト教がユダヤ教から分化して200年ぐらいは実際、なかったわけですし。まとまった本としては。
戦国時代、キリシタン大名とかが出てきますが、日本版の戦国聖書なんてものはない。聖書がなくても伝道は成立するのです。
だいたい、字が読める人間なんて近代になるまで非常に限られたエリートだったわけで(日本はやや識字率が高かったのですが)、聖書があっても中世の民衆には読めません。
聖書がないほうが、バチカンはやりやすい。指導者の言葉が真実だってことにすればいいわけです。「聖書にはそんなこと書いてないぞ」と言われなくてすむ。
これは宗教改革がバチカンへの反抗としてはじまり「聖書のみ」を重視した歴史からも明らかです。
というわけで、聖書を「相対化」してもそれほど教会主流は困らない。で、堂々と「聖書研究」ができるのです。
もっとも、それでも、護教的な聖書学者と、護教から自由な聖書学者はいます。後者の方がむろん面白い。
私は信仰なんて持てない人間ですが、聖書学は知的関心事項としてとても面白いと思います。
まあ、よくも細かく調べるもんだなと思います。しかも、古べブライ語、古アラム語、古ギリシャ語が読めないとできない。
日本人でもそれができる人間がいる、というだけで、語学嫌いの私には驚きです。
マルコが最初に書かれました。それからマタイ、ルカ、ヨハネ。パウロの手紙。
手紙はともかく福音書の筆者が誰かは分かりません。とにかく全部ギリシャ語です。イエスはアラム語ですから、生きていたとしても新約聖書が読めるのか?読めないという説もあります。
マルコを読んだルカという人とマタイという人が、「これはちょっと違うじゃないか」とそれぞれ別個に考え、自分なりの福音書を書いた。
この3つは同じようなことが書かれているように見えて、ちょっと分析すれば、まったく違うものだそうです。ヨハネはまた別の意味で全く違った福音書です。
全然違う4つの文書が一つとされて、読む方は統一的理解をしようとする。でも統一性なんか元々ないから、結局「なんだかよくわからない」ってことになるようです。
徹底的に聖書を「相対化」するのです。コーランに対してこれはできません。でもキリスト教聖書にはできる。
もともと
聖書がなくても、キリスト教は成立するのです。キリスト教がユダヤ教から分化して200年ぐらいは実際、なかったわけですし。まとまった本としては。
戦国時代、キリシタン大名とかが出てきますが、日本版の戦国聖書なんてものはない。聖書がなくても伝道は成立するのです。
だいたい、字が読める人間なんて近代になるまで非常に限られたエリートだったわけで(日本はやや識字率が高かったのですが)、聖書があっても中世の民衆には読めません。
聖書がないほうが、バチカンはやりやすい。指導者の言葉が真実だってことにすればいいわけです。「聖書にはそんなこと書いてないぞ」と言われなくてすむ。
これは宗教改革がバチカンへの反抗としてはじまり「聖書のみ」を重視した歴史からも明らかです。
というわけで、聖書を「相対化」してもそれほど教会主流は困らない。で、堂々と「聖書研究」ができるのです。
もっとも、それでも、護教的な聖書学者と、護教から自由な聖書学者はいます。後者の方がむろん面白い。
私は信仰なんて持てない人間ですが、聖書学は知的関心事項としてとても面白いと思います。
まあ、よくも細かく調べるもんだなと思います。しかも、古べブライ語、古アラム語、古ギリシャ語が読めないとできない。
日本人でもそれができる人間がいる、というだけで、語学嫌いの私には驚きです。
マルコが最初に書かれました。それからマタイ、ルカ、ヨハネ。パウロの手紙。
手紙はともかく福音書の筆者が誰かは分かりません。とにかく全部ギリシャ語です。イエスはアラム語ですから、生きていたとしても新約聖書が読めるのか?読めないという説もあります。
マルコを読んだルカという人とマタイという人が、「これはちょっと違うじゃないか」とそれぞれ別個に考え、自分なりの福音書を書いた。
この3つは同じようなことが書かれているように見えて、ちょっと分析すれば、まったく違うものだそうです。ヨハネはまた別の意味で全く違った福音書です。
全然違う4つの文書が一つとされて、読む方は統一的理解をしようとする。でも統一性なんか元々ないから、結局「なんだかよくわからない」ってことになるようです。