散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

田川健三「キリスト教思想への招待」は「くだけすぎ」

2017年06月17日 | ドラマ
最近は聖書について書くことが多くなっていますが、私にとっては「歴史の勉強」の一つです。並行して高橋和夫さんの「中東から世界が崩れる」なんて本も読んでいます。

聖書学と中東は「舞台が同じ」です。

ただし歴史も聖書も私の専門分野ではありません。専門分野はあえて書くなら教育学とか国文学なんです。専門というか、大学とか大学院で勉強したこと。

でも自分でも「高度な専門性」なんてもうない、というか当時からあまりない、ことが分かっていて、その分野についてはほとんど何も書きません。恥ずかしくて書けないのです。

でも聖書とかは全く専門外ですから、つまりはド素人ですから、まあ何でも書けるわけです。

加藤隆さんという千葉大の聖書学の先生がいて、文章が実に明快です。たぶん難しい言葉が好きな人(たとえば昔の私)なんかには「物足りない」のでしょうが、

今の私はこういう明快ですっきりとした論理文が好みです。

ただどうしてもわからない点がある。それは「神とつながる」「救われる」という概念です。ちなみにこの二つは同じことです。

本来のキリスト教にとって最も大切なことは「神とつながる」ことだと加藤さんは書きます。これがどうもよく分からない。

具体的にどういう状況なんだろうか。まあ実はヒントがあって、その具体例が「イエス」なんだそうです。動かなかった神が「動いて」イエスとつながった?え、具体的にどういうこと?

よく分かりません。

仏教は一般にわかりにくいものとされていますが、原始仏教は単純明快で「解脱」が中心概念です。これは分かりやすい。「囚われ」「こだわり」からの解放です。

愛とか生とか富とか、そういうものを失うことに怯えているから人間は不幸なんであって、そういう囚われから解放されれば精神が安定し涅槃寂静の世界に入れる。

単純明快です。

でも「神とつながる」は非常にわかりにくい。具体的にどういうことなのかがイメージできません。

というわけで加藤さん以外の本でも読もうかなと思って田川さんの本を読んでみました。「キリスト教思想への招待」

正直「え、何、この本」という感じです。アクが強いことは分かっていたし、イデオロギーも分かっていましたが、それにしてもくだけすぎというか「ふざけすぎ」というか。話の脱線が多すぎてとても読めたもんじゃありません。

で、やっぱり加藤さんに戻って「歴史の中の新約聖書」を読み直しています。

どうやら「人による人の支配」という言葉がキーになるような気がしていますが、永遠に分からないかもしれません。



死海文書はただの古い文章

2017年06月17日 | 日記
だいたい死海文書という言い方が間違いです。「死海のそばのクムランという場所の洞くつで発見された文書」ですから「クムラン文書」です。

死海というのは塩分の強い湖で、人間なんてプカプカ浮かびます。でも塩分が強すぎて生物が住めない。だから死海。とくに神秘性があるわけじゃありません。

中学の頃ですから、1970年代ですね。私がこの「死海文書」「死海写本」という「言葉」を知ったのは。

「キリスト教の古い文書なんだろ」と漠然と考えていました。

「死海文書の神秘性」とか「死海写本の謎」とか「キリスト教史を根底から覆す文書」とか、まあ色々な「嘘」が言われていましたから、ちょっとは興味を持ちましたが、特に深く調べたりはしませんでした。

それが中学の頃です。

「キリスト教の古い文書」という段階で既に間違いでした。

比較的まともな学者さんたちの一致した意見として、まず「キリスト教とは何の関係もない」文書です。

キリスト教成立の以前の文章ですから。

すっごくまじめなユダヤ教徒、別の言い方をすると鼻持ちならないエリート意識をもったユダヤ教徒の「図書館みたいな遺跡」から発見されたユダヤ教関係の文書です。

内容は儀式とか掟とかそういうもの。あと旧約聖書関係。

「とんでもないことが書かれていたらどうしよう」とキリスト教関係者もユダヤ教関係者も考えたのですが、結局「ただの古いユダヤ教関係の文章」でした。

何ひとつ根底から覆さないし、実際、何も覆っていません。