散文的で抒情的な、わたくしの意見

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「子供たちのため」という危険な言葉 黄門様の印籠じゃないのだから。

2018年08月01日 | ドラマ
「子供たちのため」、、、、この言葉は非常に危険であり、全体主義的、ファシズム的な言葉だと思います。あるいは「正義の言葉」と言ってもいい。

「正義の言葉」だから「誰も逆らえないし」、そして人を残酷にします。子供たちのために、を考えない人に対して残酷な攻撃を加えても、正義のためだからいい、と幻惑させてしまうのです。

誰が考えても、そんなこと言いだしたら「無限にやることが増えて」しまいます。本当に困っている子供(虐待や貧困)は救わなくてはいけない。でもあとはそんなにかまう必要はないのです。

どっから論に入ってもいいのですが、例えば「子供は近代になって発見された概念である」というところから入ってもいいし、あるいは「ディズニーの文化帝国主義」という面から入っていい。

でもそういう「社会学的な思考の言葉、小難しい言葉」はとりあえず使わず、「体験的な書き方」をしてみたいと思います。

簡単に言うと昭和40年代は、そんなに子供たちのことなんて大人は考えてなかった。でもそれなりに子供は育っているじゃないかということです。

ビートたけしさんに「みんなゴミだった」という本があります。僕の時代もそうでした。昭和40年代に僕は「子供として認識される存在」でした。

そこらにいくらでもいるゴミのような少年だったし、まわりの大人からも「ガキは向こうにいってろ、邪魔だ」と扱われる存在でした。僕だけではない、みんながそうでした。

ただ母だけは大切にしてくれました。母だけは「子供のために」を考えてくれていた。それで十分だったと思っています。「一人いれば十分」なのです。

少し時代が飛びますが、高校時代です。僕の高校は都立で、先生方は僕らにほとんど興味がありませんでした。「それがなんと心地よかった」ことか。

「あまりにかまってもらうのは迷惑」なのです。

そもそも「子供であったのか」という問題があります。ただ「体の小さな人間」だっただけではなかろうか。町にはインチキおやじが沢山いて、小学校の前で「ピンクのひよこ」とか売っていて、なんとかガキを騙して小銭をとりあげようとしていました。僕らは「かわいそうな子供」ではなく「小さな人間」でしたから、そういう「いんちき親父」の存在は百も承知です。そういうのと戦って、時には騙され、時には逃げ切り、そうして「体の大きな人間」になりました。

要するに言いたいのはこういうことです。

子供は近代になって発見された概念である。したがって「子供が子供なのかを考える」必要がある。体の小さな人間に過ぎず、特に特別な存在ではない、という意見にも耳を傾けよ。

それをあたかも「特別な存在」のようにしたのは、例えばディズニーである。これをディズニーの文化帝国主義という。

「子供のために」など考えていたら、教育現場では「無限に仕事が増えて、教師が疲弊して」しまう。考えるなら「教師のために」「親のために」を考えるべきである。

助けるべきは例えば、極めて貧困である子、虐待を受けている子、病気の子、、とこのように「限定」すべきである。あとは「あんまりかまう」べきではない。かまわなくても勝手に育つ。

「子供たちのためにを過剰に考える必要はない」という人間の意見を尊重しろ。こっちも「子供たちのために」という人間を「どうぞご自由に」と尊重するから、「そんなに考えなくてもいい」という人間の考えも尊重せよ。もし、できないとしたら、それは全体主義的思考である。


水戸黄門の印籠じゃないのですから、「子供たちのために」と言えば、「ハハー」と這いつくばると思ったら、大間違いだし、這いつくばる必要は全くありません。