信長の尾張統一を理解する上で必要となる「人物のまとめ」です。ほとんど「織田」なので、わかりやすくはありません。
前提として信長の親父、織田信秀の時代、尾張には次のような「グループ」があったことを知っておいてください。
守護である斯波氏グループ(しばし)
守護代である清州織田氏グループ(きよす) または大和守織田氏
守護代である岩倉織田氏グループ(いわくら) または伊勢守織田氏
清州織田氏の奉行である信長血縁グループ(勝幡織田氏グループまたは織田弾正忠家グループ)・・勝幡の読みは「しょぱた」です。
織田信秀(1551-1552)・・織田信長の親父、斯波・織田連合体である「尾張グループ」の代表格であった。しかし身分は低く守護代清州織田氏の奉行。勝幡城主→那古野城主→古渡城主→末盛城主
織田信長(1534-1582)・・18歳の時、父の織田信秀が死ぬ。1546年以前に那古野城主となる。親父は末盛城主。家督を継いだとされるが、信秀の居城である末盛城は弟信行が継いだ。
織田信行(1534より後の生まれ-没1558)
織田信秀の三男か四男、信長の同母弟。母は土田御前。名前がいくつかあり「勘十郎」「信勝」「達成」「信成」。織田信秀の居城である末盛城を継いだ。信秀死後、勝幡織田家の権力は「織田信長」「織田信行」「織田信光」の三人に分割された。信秀没直後は信長とは協力関係だったようである。だが2年後の1554年には織田弾正忠家当主を名乗って信長と対抗した。1556年には重臣「林秀貞・林美作守・柴田勝家」と共に信長と戦った(稲生の戦い)。この時林美作守は戦死。戦は信長が勝利。信行は末盛城に籠城。土田御前の仲介によりこの時は許された。しかし、1559年、岩倉織田家の信安に通じて謀反を計画。これを柴田勝家が信長に密告した。結局同年11月、病気と偽った信長の見舞いに行き、清州城で謀殺された。既に織田信光も没しており、これで信秀系の勝幡織田氏、つまり織田弾正忠家は織田信長のものとなった。子は津田信澄。津田信澄は明智光秀の女婿で、織田家連枝として遇された。本能寺の変で織田信孝に疑われ殺害された。
織田信光(1516-1556)
織田信秀の弟。つまり信長の叔父。孫三郎。守山城主。信秀系織田氏の中で信秀没後、一定の権力を有していたと思われる。1555年、信長と協力して清州織田氏の当主・織田信友とその家来坂井大膳を謀略にかけ織田信友を殺害。清州城を乗っ取る。坂井大膳は今川に逃亡。信長を清州に入れ、自分は那古野城主となった。その翌年の1月には家来坂井孫八郎に殺害された。急な死であったため「暗殺説」もあるが証拠資料はない。彼の死により勝幡織田氏(信秀系織田氏)の権力は織田信長と織田信行で分け合うことになった。
山口左馬之介(1560頃没)
織田信秀配下、三河との国境にある鳴海城を任されていた。1552年、信秀が死ぬと、息子九郎二郎と共に、信長に反旗をひるがえし、今川の軍勢を鳴海城に入れた。信長は800の兵で戦う(赤塚の戦い)が、引き分け。その後今川義元に疑われ、切腹させられた。
織田信友(没1554) 清州織田家
信長の直属の上司である尾張守護代清州織田家当主。清州城主。当主としての実権はさほどなく、坂井氏や河尻氏が実権を持っていたらしい。1552年ごろから信長と明確に対立。戦いをしかけたり、暗殺を企てたりする。1554年には家老坂井大膳とともに「信長派」であった守護「斯波義統」を暗殺。信長と戦って敗れる。織田信光に調略をしかけるも、逆にだまされ、清州城を乗っ取られて死亡する。坂井大膳は今川に逃れる。斯波義統の子「斯波義銀」は信長の保護下に入る。
斯波義統(1513-1554)(しばよしむね)尾張守護・国主
尾張の守護代。斯波氏14代当主。尾張に対し一定の影響力はもっていた。特に織田信秀とは協力関係にあり、両者は互いに利用しあう関係にあった。その為、信秀の上司である清州織田氏・織田信友とは対立的な関係になっていく。1554年、織田信友の信長暗殺計画を信長に密告。義統の密告を知った信友に襲撃され、奮戦ののち討ち死にする。信長は義統の子「斯波義銀」を保護。信長は逆賊討伐を名分にして、信友を討ち果たす。
織田信安(没1591または1614) 尾張守護代・岩倉織田家当主・織田伊勢守家
織田信秀は守護代清州織田氏の奉行であったが、信安はもう一つの守護代家「岩倉織田氏」の当主である。信秀とは友好的であったが、信長と疎遠であった。が、尾張上四郡では勢力を保っていた。信長に追放されたわけではなく、家督争いが起こり、長男の織田信賢に追放された。
織田信賢(生没年不詳)(おだのぶかた) 尾張守護代・岩倉織田氏当主・織田伊勢守家
父である織田信安を追放して、岩倉織田氏当主となる。岩倉城主。信長の弟信行を支援して信長と戦うが、1559年、追放される。同年、信長は今川と通じた斯波義銀も追放したため、ここに信長の尾張統一がなることになる。
以下逐次加筆します。
前提として信長の親父、織田信秀の時代、尾張には次のような「グループ」があったことを知っておいてください。
守護である斯波氏グループ(しばし)
守護代である清州織田氏グループ(きよす) または大和守織田氏
守護代である岩倉織田氏グループ(いわくら) または伊勢守織田氏
清州織田氏の奉行である信長血縁グループ(勝幡織田氏グループまたは織田弾正忠家グループ)・・勝幡の読みは「しょぱた」です。
織田信秀(1551-1552)・・織田信長の親父、斯波・織田連合体である「尾張グループ」の代表格であった。しかし身分は低く守護代清州織田氏の奉行。勝幡城主→那古野城主→古渡城主→末盛城主
織田信長(1534-1582)・・18歳の時、父の織田信秀が死ぬ。1546年以前に那古野城主となる。親父は末盛城主。家督を継いだとされるが、信秀の居城である末盛城は弟信行が継いだ。
織田信行(1534より後の生まれ-没1558)
織田信秀の三男か四男、信長の同母弟。母は土田御前。名前がいくつかあり「勘十郎」「信勝」「達成」「信成」。織田信秀の居城である末盛城を継いだ。信秀死後、勝幡織田家の権力は「織田信長」「織田信行」「織田信光」の三人に分割された。信秀没直後は信長とは協力関係だったようである。だが2年後の1554年には織田弾正忠家当主を名乗って信長と対抗した。1556年には重臣「林秀貞・林美作守・柴田勝家」と共に信長と戦った(稲生の戦い)。この時林美作守は戦死。戦は信長が勝利。信行は末盛城に籠城。土田御前の仲介によりこの時は許された。しかし、1559年、岩倉織田家の信安に通じて謀反を計画。これを柴田勝家が信長に密告した。結局同年11月、病気と偽った信長の見舞いに行き、清州城で謀殺された。既に織田信光も没しており、これで信秀系の勝幡織田氏、つまり織田弾正忠家は織田信長のものとなった。子は津田信澄。津田信澄は明智光秀の女婿で、織田家連枝として遇された。本能寺の変で織田信孝に疑われ殺害された。
織田信光(1516-1556)
織田信秀の弟。つまり信長の叔父。孫三郎。守山城主。信秀系織田氏の中で信秀没後、一定の権力を有していたと思われる。1555年、信長と協力して清州織田氏の当主・織田信友とその家来坂井大膳を謀略にかけ織田信友を殺害。清州城を乗っ取る。坂井大膳は今川に逃亡。信長を清州に入れ、自分は那古野城主となった。その翌年の1月には家来坂井孫八郎に殺害された。急な死であったため「暗殺説」もあるが証拠資料はない。彼の死により勝幡織田氏(信秀系織田氏)の権力は織田信長と織田信行で分け合うことになった。
山口左馬之介(1560頃没)
織田信秀配下、三河との国境にある鳴海城を任されていた。1552年、信秀が死ぬと、息子九郎二郎と共に、信長に反旗をひるがえし、今川の軍勢を鳴海城に入れた。信長は800の兵で戦う(赤塚の戦い)が、引き分け。その後今川義元に疑われ、切腹させられた。
織田信友(没1554) 清州織田家
信長の直属の上司である尾張守護代清州織田家当主。清州城主。当主としての実権はさほどなく、坂井氏や河尻氏が実権を持っていたらしい。1552年ごろから信長と明確に対立。戦いをしかけたり、暗殺を企てたりする。1554年には家老坂井大膳とともに「信長派」であった守護「斯波義統」を暗殺。信長と戦って敗れる。織田信光に調略をしかけるも、逆にだまされ、清州城を乗っ取られて死亡する。坂井大膳は今川に逃れる。斯波義統の子「斯波義銀」は信長の保護下に入る。
斯波義統(1513-1554)(しばよしむね)尾張守護・国主
尾張の守護代。斯波氏14代当主。尾張に対し一定の影響力はもっていた。特に織田信秀とは協力関係にあり、両者は互いに利用しあう関係にあった。その為、信秀の上司である清州織田氏・織田信友とは対立的な関係になっていく。1554年、織田信友の信長暗殺計画を信長に密告。義統の密告を知った信友に襲撃され、奮戦ののち討ち死にする。信長は義統の子「斯波義銀」を保護。信長は逆賊討伐を名分にして、信友を討ち果たす。
織田信安(没1591または1614) 尾張守護代・岩倉織田家当主・織田伊勢守家
織田信秀は守護代清州織田氏の奉行であったが、信安はもう一つの守護代家「岩倉織田氏」の当主である。信秀とは友好的であったが、信長と疎遠であった。が、尾張上四郡では勢力を保っていた。信長に追放されたわけではなく、家督争いが起こり、長男の織田信賢に追放された。
織田信賢(生没年不詳)(おだのぶかた) 尾張守護代・岩倉織田氏当主・織田伊勢守家
父である織田信安を追放して、岩倉織田氏当主となる。岩倉城主。信長の弟信行を支援して信長と戦うが、1559年、追放される。同年、信長は今川と通じた斯波義銀も追放したため、ここに信長の尾張統一がなることになる。
以下逐次加筆します。
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