最近は織田信長の上洛戦について書くことが多くなっています。
永禄10年と天正10年。1567年と1582年。この二つの「10年」が信長にとって非常に大切です。永禄10年は信長の上洛戦が実質的に始まった年です。正確には永禄11年からですが、伊勢平定を始めていますから、実質的には永禄10年が上洛戦の始まりです。こうして年代を並べてみると信長の天下統一戦は15年間です。その前は尾張統一・美濃攻略で、これに15年かかっています。天正10年が本能寺の変です。永禄と天正の間には元亀が3年ほどあります。
なお永禄10年は天下布武の印を使い始めた年でもあります。永禄10年・11年は安土桃山時代の始まりともされます。
信長は岐阜にいましたから、上洛戦で「邪魔」なのは、北伊勢(三重の北)の神戸氏と長野氏。これには養子を送って乗っ取ります。
最も「邪魔」なのは近江(琵琶湖辺り)の六角義賢・この人六角承禎という名で有名です。承禎は剃髪後の法名です。永楽2年には名乗っていたようですから、ここからは承禎と書きます。
信長は六角承禎とも戦いたくなかったようです。何度か使者を送って上洛協力要請をしています。義昭からも使者が出ています。岐阜からでは遠いと思ったのか、浅井の佐和山城に信長自ら出向いて、そこから六角と交渉したりしています。
しかし結局決裂します。これが永禄11年のことです。
信長は岐阜にもどって軍勢を整え、「1万5千の兵で出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」。主戦場は箕作城です。織田軍の陣容は
1、稲葉良通(稲葉一鉄)
2、柴田勝家・森可成
3、織田信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉
六角承禎は観音寺城にいました。しかし支城の和田城・箕作城が簡単に陥落。六角承禎は甲賀に逃走します。(この後も数年信長に対抗)
六角家家老・蒲生賢秀は日野城で最後まで抵抗する。しかし神戸氏らの説得を受けて降伏。人質を差し出す。この時の人質が蒲生氏郷。豊臣家では大封を有しましたが、ちょっと影が薄い人です。
木下秀吉が「信長記」に登場します。他の資料ではその3年ぐらい前に登場しているようです。
一番分からないのは「1万5千の兵で岐阜を出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」点です。1万5千に浅井の3千、徳川の1千が加わり5万、、、て計算が合いません。1万9千でしょう。
むろん伊勢や近江の国衆が「お味方」したのでしょう。その数3万。ちょっと多すぎるかなと思いますが、特に大きな異論はないようです。あっても私が知らないだけかも知れません。
永禄10年と天正10年。1567年と1582年。この二つの「10年」が信長にとって非常に大切です。永禄10年は信長の上洛戦が実質的に始まった年です。正確には永禄11年からですが、伊勢平定を始めていますから、実質的には永禄10年が上洛戦の始まりです。こうして年代を並べてみると信長の天下統一戦は15年間です。その前は尾張統一・美濃攻略で、これに15年かかっています。天正10年が本能寺の変です。永禄と天正の間には元亀が3年ほどあります。
なお永禄10年は天下布武の印を使い始めた年でもあります。永禄10年・11年は安土桃山時代の始まりともされます。
信長は岐阜にいましたから、上洛戦で「邪魔」なのは、北伊勢(三重の北)の神戸氏と長野氏。これには養子を送って乗っ取ります。
最も「邪魔」なのは近江(琵琶湖辺り)の六角義賢・この人六角承禎という名で有名です。承禎は剃髪後の法名です。永楽2年には名乗っていたようですから、ここからは承禎と書きます。
信長は六角承禎とも戦いたくなかったようです。何度か使者を送って上洛協力要請をしています。義昭からも使者が出ています。岐阜からでは遠いと思ったのか、浅井の佐和山城に信長自ら出向いて、そこから六角と交渉したりしています。
しかし結局決裂します。これが永禄11年のことです。
信長は岐阜にもどって軍勢を整え、「1万5千の兵で出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」。主戦場は箕作城です。織田軍の陣容は
1、稲葉良通(稲葉一鉄)
2、柴田勝家・森可成
3、織田信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉
六角承禎は観音寺城にいました。しかし支城の和田城・箕作城が簡単に陥落。六角承禎は甲賀に逃走します。(この後も数年信長に対抗)
六角家家老・蒲生賢秀は日野城で最後まで抵抗する。しかし神戸氏らの説得を受けて降伏。人質を差し出す。この時の人質が蒲生氏郷。豊臣家では大封を有しましたが、ちょっと影が薄い人です。
木下秀吉が「信長記」に登場します。他の資料ではその3年ぐらい前に登場しているようです。
一番分からないのは「1万5千の兵で岐阜を出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」点です。1万5千に浅井の3千、徳川の1千が加わり5万、、、て計算が合いません。1万9千でしょう。
むろん伊勢や近江の国衆が「お味方」したのでしょう。その数3万。ちょっと多すぎるかなと思いますが、特に大きな異論はないようです。あっても私が知らないだけかも知れません。
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