西郷は武装決起します。村田新八らは「海路東京を襲撃する」ことを主張しますが、桐野ら参謀は「政府に尋問の筋これあり」が西郷軍の大義であり、堂々と熊本城の鎮台兵を叩くことを主張します。西郷は「尋問の筋あり」などと言うのは「戦の大義に過ぎず、実質は反政府武装蜂起である、戦は言葉遊びでやるものではない。殺し合いである。」と「心では思う」ものの、「すでの自分の体は預けた」という考えのもと、何も言いません。
桐野は「竹の棒一本あれば熊本城など叩きつぶせる」と後世に残る「名言」「迷言」をはきます。そして熊本鎮台の「谷干城」に対し、「西郷大将が行くから、お出迎えをしろ」という手紙を書きます。むろん谷干城は「激怒」します。「西郷はどこまで増長しているのか。大将などというのは位に過ぎず、軍隊の指揮命令系統とは何の関係もない」と正論を吐きます。
熊本鎮台の火力の前に西郷軍は城にとりつくこともできません。それでも桐野は「鎮台は本気でやる気だな。元気があってなかなかいい」と虚勢を張ります。しかしあえなく撤退し、西郷の神通力など一部薩摩士族にしか通用しないことを痛感します。
やがて舞台は熊本城の北方「田原坂」に。政府鎮台兵は薩摩の「抜刀隊」を恐れます。しかし川路が薩摩郷士からなる「警視隊」を投入すると、勝負は互角になり、やがて「火力に勝る」政府軍が西郷軍を圧倒していきます。政府に尋問などという「言葉遊び」は何の意味もなく、西郷軍は薩摩へ薩摩へと追い詰められていきます。
総司令官的な地位にあった山縣有朋はそれでも西郷軍を恐れ、「鎮台は薩摩士族の敵ではないのか」と悲観的な意見を述べます。副司令官的地位にいた大山巌は「薩摩の戦いは、昔から勇猛である。しかし勇猛であるあまり、補給を軽んじ、後方をかえりみない。今鹿児島はカラになっている。そこをつくべきだ。田原坂の薩摩軍に対しては撃って撃って撃ちまくる。火力では政府が圧倒的優位に立っている。撃って撃って撃ちまくれば、勝利は必ず政府軍がつかむ」と山縣を諭します。
山縣有朋は言います。「思えば、村田先生(大村益次郎)は九州に備えて火力を増強せよと長州の山田に言い残して死んだ。薩摩人である君の前で言うのもなんだが、殺したのは薩摩人であり久光公側近の有村俊斎である。それから8年が経つ。村田先生は明治2年に死んだが、時を経て、今、薩摩の西郷さんと刺し違えようとしている。村田先生はまさに鬼謀の人であった」
そんな中、桂小五郎が結核でなくなる。亡くなる前「西郷君、もう分かった、もういい加減にせんか」と声を絞りだすようにして言います。
西郷軍に物質的な支援をしていた県令(知事)の大山は、カラになった鹿児島をついた政府軍によって囚われの身となります。そしてやがて東京で大久保と対面。
大山は言います。
「今度はおいたちも薩摩の怒りを抑えられなかった。しかし自分は久光公に対しても、西郷さーに対しても自分の役割は果たした。政府の方針を無視し、内務卿である一蔵(大久保)を散々苦しめたが、それがおいの戦いであった。一蔵どん、薩摩人の死を無駄にするな。おいたちの死を乗り越えて一蔵どんも自分の役割を果たせ。」
そして肩を強く握りしめてこう言います。
「役割を果たして、一蔵どんも早く楽になれ」
すでに自分が遠からず殺されるであろうことを予想していた大久保は黙ってうなずき、こう言います。
「自分と大山さーのことは、そして自分と西郷さーのことは、決して他の人には分からないでしょう。」
大山は「頑張れ」というように大久保を見つめます。
大山巌が西郷糸を訪ねます。大山巌は西郷隆盛、従道とは「いとこ」の関係でした。薩摩には警視隊の薩摩郷士を多く殺した西郷家を恨む声もあり、糸たちを保護することが大山巌の目的でもあり、西郷従道の願いでもありました。糸は言います。「保護は受けません。大将の妻として死んだ人たちの恨みは甘んじて受けるつもりです。うちの人や新八さーは、血気にはやるニセどんたちを必死になって抑えようとしてきました。その思いは、東京にいる慎吾どんも弥助さー(大山巌)も同じだったはずです。慎吾どん、弥助さーは政府の大官でありながら、何故この戦争を止められなかったのですか。大久保さーは、何を考えていたのです。」
大山巌は黙ってうなづき、子供たちの為の物品だけを置き、兵士たちに遠巻きに警護を行うよう指示して、西郷家を去ります。
一方島津久光のもとには勅使として柳原前光が派遣されていました。久光の上京をうながすためです。久光は中立を表明し、東京には忠義ら息子を行かせると言います。その上で、今までと同じ政府批判を行い、西郷暗殺計画についても触れます。柳原は毅然として言います。「維新では長州人がもっとも多く死にました。しかし今山口の県令は元幕臣の関口であり、山口県は何の特権も得ていない。なぜ鹿児島だけを特別に扱わなくてはいけないのか。大久保卿は長州の木戸さんに絶えず責められておりました。久光公、西郷さんはやがて戦死なさるでしょう。多くの薩摩武士も死にます。久光公は維新において大きな功績がありました。だから今後も政府は久光公だけは守ります。しかし鹿児島を今後特別扱いすることなどできません。時代は移っていくのです。もはや殿様などは無用の特権と思し召して、余生を風雅の中に送っていただきたく存じます」
そして西郷軍は敗退に敗退を重ねます。義軍を率いて熊本から参加していた宮崎八郎は「薩摩は勇猛と聞いていたが、ここまで近代戦を知らないとは思ってもみなかった」という言葉を残し、戦死します。西郷の末弟である西郷小兵衛も戦死します。
そんななか、転々と各地をさまよう西郷軍より「西郷助命の嘆願」が山縣に届きます。戦は自分たちが西郷をかついで起こしたにすぎず、国家のため西郷だけは殺さないで欲しいという内容でした。
「どうなさいますか、西郷を殺し、その首を江藤のようにさらしますか」と言う大山巌に対して、山縣有朋は半ば怒り、そして悲し気に言います。「自分は山城屋の件では西郷さんに生涯忘れてはならない恩を受けている。助けられるものなら私だって助けたい。西郷さんの死を悲しむ者は、君や大久保卿や西郷従道君だけではない。しかし、ここまで人が死んだ以上、助命はもはや無理である。自分は西郷さんを無残に殺したくはない。今となっては西郷さんに自刃してもらうほかない。それを願っている。」
西郷軍は人吉に移り、やがて宮崎、延岡そして長井村へと根拠を転々と移しながらさまよいます。その間、桐野たちは兵隊を強制徴用したり、「西郷札」という「空手形」を発行することにより、いわば民衆を騙して物資を補給します。このように桐野らが散々民衆を苦しめるのを見た西郷は「西郷軍解散」を決心します。そして今後は残った少数に対し、自分が指揮をとることを宣言します。すでに死を覚悟していました。西郷にとって問題なのは、いかに長井村から脱出し、薩摩に戻り、そして薩摩において死ぬか、もうそれだけでした。「自分が死んでも東京に大久保ある限り、日本は大丈夫である」、西郷は村田新八に対し静かにそう言います。「それにしても鎮台兵は強くなりました。これで外国との戦争も大丈夫ごわすな」、村田新八は微笑みながらそう言います。西郷も満面の笑みでそれに大きくうなづきます。「自分は後方では死なん。我がふるさと薩摩に戻り、そこで政府軍を迎えうち前線に於いて死す。さあ、行こかい」、西郷は立ち上がります。
やがて薩摩の城山に籠った少数の西郷軍を、膨大な数の政府軍が取り囲みます。西郷は最後の突撃を試み、2発の弾丸を受けます。「ここらで良かろうかい」、西郷はそう言い残して別府晋助の介錯で自刃します。桐野らは塹壕の上で政府軍に身をさらして、鉄砲を撃ち続けます。左右から政府の抜刀隊が桐野を狙いますが、桐野は立ちどころに相手を切り殺します。しかし政府の弾丸が桐野のひたいを撃ち抜きます。残った者たちも次々に自刃します。西郷軍の壊滅を見届けた村田新八も自刃します。最期の言葉は「ああ天命なり」でした。
賊魁(ぞくかい)西郷死すの電信を大久保は受け取ります。大久保は涙を流し、心の中で自分に向かってこう考えます。
「後世、自分は英雄西郷を殺した男とされるだろう。そして人々に恨まれるに違いない。それは良い。しかし、自分と西郷さーの関係は、どんなに言葉を尽くそうと、後世の人間には決して理解できないだろう」
以上。
もちろんこれは「西郷どん」の「あらすじ」ではありません。「こう描くべきだ」という私の「願い」みたいなものです。「翔ぶが如く」のセリフも拝借しています。しかし実際は全く違うことが描かれました。無駄なエピソードばかりで、西南戦争の推移も全く描けていません。西郷軍の敗因すら分からない脚本で、残念な限りです。「ここらで良かろうかい」と西田さんは言いますが、「いいわけないだろ」と思います。
桐野は「竹の棒一本あれば熊本城など叩きつぶせる」と後世に残る「名言」「迷言」をはきます。そして熊本鎮台の「谷干城」に対し、「西郷大将が行くから、お出迎えをしろ」という手紙を書きます。むろん谷干城は「激怒」します。「西郷はどこまで増長しているのか。大将などというのは位に過ぎず、軍隊の指揮命令系統とは何の関係もない」と正論を吐きます。
熊本鎮台の火力の前に西郷軍は城にとりつくこともできません。それでも桐野は「鎮台は本気でやる気だな。元気があってなかなかいい」と虚勢を張ります。しかしあえなく撤退し、西郷の神通力など一部薩摩士族にしか通用しないことを痛感します。
やがて舞台は熊本城の北方「田原坂」に。政府鎮台兵は薩摩の「抜刀隊」を恐れます。しかし川路が薩摩郷士からなる「警視隊」を投入すると、勝負は互角になり、やがて「火力に勝る」政府軍が西郷軍を圧倒していきます。政府に尋問などという「言葉遊び」は何の意味もなく、西郷軍は薩摩へ薩摩へと追い詰められていきます。
総司令官的な地位にあった山縣有朋はそれでも西郷軍を恐れ、「鎮台は薩摩士族の敵ではないのか」と悲観的な意見を述べます。副司令官的地位にいた大山巌は「薩摩の戦いは、昔から勇猛である。しかし勇猛であるあまり、補給を軽んじ、後方をかえりみない。今鹿児島はカラになっている。そこをつくべきだ。田原坂の薩摩軍に対しては撃って撃って撃ちまくる。火力では政府が圧倒的優位に立っている。撃って撃って撃ちまくれば、勝利は必ず政府軍がつかむ」と山縣を諭します。
山縣有朋は言います。「思えば、村田先生(大村益次郎)は九州に備えて火力を増強せよと長州の山田に言い残して死んだ。薩摩人である君の前で言うのもなんだが、殺したのは薩摩人であり久光公側近の有村俊斎である。それから8年が経つ。村田先生は明治2年に死んだが、時を経て、今、薩摩の西郷さんと刺し違えようとしている。村田先生はまさに鬼謀の人であった」
そんな中、桂小五郎が結核でなくなる。亡くなる前「西郷君、もう分かった、もういい加減にせんか」と声を絞りだすようにして言います。
西郷軍に物質的な支援をしていた県令(知事)の大山は、カラになった鹿児島をついた政府軍によって囚われの身となります。そしてやがて東京で大久保と対面。
大山は言います。
「今度はおいたちも薩摩の怒りを抑えられなかった。しかし自分は久光公に対しても、西郷さーに対しても自分の役割は果たした。政府の方針を無視し、内務卿である一蔵(大久保)を散々苦しめたが、それがおいの戦いであった。一蔵どん、薩摩人の死を無駄にするな。おいたちの死を乗り越えて一蔵どんも自分の役割を果たせ。」
そして肩を強く握りしめてこう言います。
「役割を果たして、一蔵どんも早く楽になれ」
すでに自分が遠からず殺されるであろうことを予想していた大久保は黙ってうなずき、こう言います。
「自分と大山さーのことは、そして自分と西郷さーのことは、決して他の人には分からないでしょう。」
大山は「頑張れ」というように大久保を見つめます。
大山巌が西郷糸を訪ねます。大山巌は西郷隆盛、従道とは「いとこ」の関係でした。薩摩には警視隊の薩摩郷士を多く殺した西郷家を恨む声もあり、糸たちを保護することが大山巌の目的でもあり、西郷従道の願いでもありました。糸は言います。「保護は受けません。大将の妻として死んだ人たちの恨みは甘んじて受けるつもりです。うちの人や新八さーは、血気にはやるニセどんたちを必死になって抑えようとしてきました。その思いは、東京にいる慎吾どんも弥助さー(大山巌)も同じだったはずです。慎吾どん、弥助さーは政府の大官でありながら、何故この戦争を止められなかったのですか。大久保さーは、何を考えていたのです。」
大山巌は黙ってうなづき、子供たちの為の物品だけを置き、兵士たちに遠巻きに警護を行うよう指示して、西郷家を去ります。
一方島津久光のもとには勅使として柳原前光が派遣されていました。久光の上京をうながすためです。久光は中立を表明し、東京には忠義ら息子を行かせると言います。その上で、今までと同じ政府批判を行い、西郷暗殺計画についても触れます。柳原は毅然として言います。「維新では長州人がもっとも多く死にました。しかし今山口の県令は元幕臣の関口であり、山口県は何の特権も得ていない。なぜ鹿児島だけを特別に扱わなくてはいけないのか。大久保卿は長州の木戸さんに絶えず責められておりました。久光公、西郷さんはやがて戦死なさるでしょう。多くの薩摩武士も死にます。久光公は維新において大きな功績がありました。だから今後も政府は久光公だけは守ります。しかし鹿児島を今後特別扱いすることなどできません。時代は移っていくのです。もはや殿様などは無用の特権と思し召して、余生を風雅の中に送っていただきたく存じます」
そして西郷軍は敗退に敗退を重ねます。義軍を率いて熊本から参加していた宮崎八郎は「薩摩は勇猛と聞いていたが、ここまで近代戦を知らないとは思ってもみなかった」という言葉を残し、戦死します。西郷の末弟である西郷小兵衛も戦死します。
そんななか、転々と各地をさまよう西郷軍より「西郷助命の嘆願」が山縣に届きます。戦は自分たちが西郷をかついで起こしたにすぎず、国家のため西郷だけは殺さないで欲しいという内容でした。
「どうなさいますか、西郷を殺し、その首を江藤のようにさらしますか」と言う大山巌に対して、山縣有朋は半ば怒り、そして悲し気に言います。「自分は山城屋の件では西郷さんに生涯忘れてはならない恩を受けている。助けられるものなら私だって助けたい。西郷さんの死を悲しむ者は、君や大久保卿や西郷従道君だけではない。しかし、ここまで人が死んだ以上、助命はもはや無理である。自分は西郷さんを無残に殺したくはない。今となっては西郷さんに自刃してもらうほかない。それを願っている。」
西郷軍は人吉に移り、やがて宮崎、延岡そして長井村へと根拠を転々と移しながらさまよいます。その間、桐野たちは兵隊を強制徴用したり、「西郷札」という「空手形」を発行することにより、いわば民衆を騙して物資を補給します。このように桐野らが散々民衆を苦しめるのを見た西郷は「西郷軍解散」を決心します。そして今後は残った少数に対し、自分が指揮をとることを宣言します。すでに死を覚悟していました。西郷にとって問題なのは、いかに長井村から脱出し、薩摩に戻り、そして薩摩において死ぬか、もうそれだけでした。「自分が死んでも東京に大久保ある限り、日本は大丈夫である」、西郷は村田新八に対し静かにそう言います。「それにしても鎮台兵は強くなりました。これで外国との戦争も大丈夫ごわすな」、村田新八は微笑みながらそう言います。西郷も満面の笑みでそれに大きくうなづきます。「自分は後方では死なん。我がふるさと薩摩に戻り、そこで政府軍を迎えうち前線に於いて死す。さあ、行こかい」、西郷は立ち上がります。
やがて薩摩の城山に籠った少数の西郷軍を、膨大な数の政府軍が取り囲みます。西郷は最後の突撃を試み、2発の弾丸を受けます。「ここらで良かろうかい」、西郷はそう言い残して別府晋助の介錯で自刃します。桐野らは塹壕の上で政府軍に身をさらして、鉄砲を撃ち続けます。左右から政府の抜刀隊が桐野を狙いますが、桐野は立ちどころに相手を切り殺します。しかし政府の弾丸が桐野のひたいを撃ち抜きます。残った者たちも次々に自刃します。西郷軍の壊滅を見届けた村田新八も自刃します。最期の言葉は「ああ天命なり」でした。
賊魁(ぞくかい)西郷死すの電信を大久保は受け取ります。大久保は涙を流し、心の中で自分に向かってこう考えます。
「後世、自分は英雄西郷を殺した男とされるだろう。そして人々に恨まれるに違いない。それは良い。しかし、自分と西郷さーの関係は、どんなに言葉を尽くそうと、後世の人間には決して理解できないだろう」
以上。
もちろんこれは「西郷どん」の「あらすじ」ではありません。「こう描くべきだ」という私の「願い」みたいなものです。「翔ぶが如く」のセリフも拝借しています。しかし実際は全く違うことが描かれました。無駄なエピソードばかりで、西南戦争の推移も全く描けていません。西郷軍の敗因すら分からない脚本で、残念な限りです。「ここらで良かろうかい」と西田さんは言いますが、「いいわけないだろ」と思います。
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