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京都五山と禅宗についての覚書

2018年12月08日 | 歴史
「京都五山」という言葉はよく聞きますが、別に「山の名前」ではありません。室町幕府の庇護を受けた「6つの寺」のことです。ややこしい。5山なのに6つです。

「三好三人衆」という言葉もよく聞きますが、これは3人です。でも何故か個人名で呼ばれず「三好三人衆」と言われます。個人名としては三好長逸(みよしながやす)、三好政康(みよしまさやす)、岩成友通(いわなりともみち)。これもやや「ややこしい」。岩成は三好姓ではありません。

さて京都五山。「位」がつけられています。

別格が南禅寺、第1位が天龍寺、第2位が相国寺、第3位が建仁寺、第4位が東福寺、第5位が万寿寺。

この内、2位の相国寺は室町初期は五山ではなく、存在もしていません。なぜなら三代将軍足利義満が作った寺で、義満の圧倒的な政治力のもとに「五山の仲間入り」をしたからです。

そうすると元々の5寺に加えて全部で6寺になります。それでも「京都六山」とはなりませんでした。南禅寺を「別格」とすることで、「つじつま合わせ」をしたようです。でもやっぱり「6寺」あるので、「辻褄合わせにもなっていない」感じはあります。

さてさて禅宗。

難しい言葉は抜きにして、大雑把に言えば、「断捨離」とか「シンプルライフ」を主張?する教えで、いかにも仏教的です。

一切皆苦→諸行無常→涅槃寂静。これも大雑把ですが、諸行無常を正しく捉え、やがて涅槃寂静の悟りの境地に至る、これが私の捉える「仏教のそもそもの姿」です。もちろん上座部仏教(小乗仏教)です。

個人救済と修行(座禅)の重視を特徴としている点で、禅宗は「初期仏教の流れ」かと思います。もっとも禅宗にも、いろいろな流れがあるようで、大乗的な考えをする宗派はあるようです。

そもそも私としては「大乗仏教か」「上座部仏教か」という点にはあまり興味がありません。「人間個人の救い」を問題としているか「鎮護国家を問題としているか」が多少問題のように思えます。もっとも「鎮護国家を問題として」いても、結局はそれが「人々の救済」につながるわけですが、それでも一つの指標にはなると思います。ただ例えば、空海の密教は明確に鎮護国家を問題としていましたが、それでも人間個人の救済を問題としていなかったわけではありません。学問的には難しい問題ですが、別に学問をする気はないので、まあ区別などは「いい加減」でいいのではと思います。

仏教というのは、これもまあ大雑把ですが「いかにして悟るか」を説く宗教です。「悟りへの方法の違い」があるだけです。「いかにして心の平安を得るか」が問題なわけです。

キリストを信じて、キリスト教の仲間と交わることによって「平安を得られる」なら、それは悟りです。イスラム教を信じて平安を得られるなら、それも「悟り」です。

浄土衆の場合は念仏を唱えて浄土を信じることで「平安を得よう」とします。日蓮宗はまあ攻撃的で、なんとなく平安とはほど遠い感じもしますが、「まず社会を平安にし、そのもとで個人が平安を得る」という「宗教であろうか」と思います。日蓮宗について調べたことがあまりないので自信はありません。

さて禅宗の場合は、「捨てる」ことによって平安を得ようとします。

妄想を捨てる、、過去や未来について想像し、心を乱すことなかれ。
情報を捨てる、、「知識」によって心を乱すことなかれ。

総じていうなら「心配事で心を乱すなかれ」という宗教のように思います。その一助となるのが「捨てる」という動作です。

と「わかったようなこと」を書いていますが、もちろん私は専門家ではないので、「なまカジリの知識」です。ただし仏教的に書くならば「専門家かそうでないのか」にこだわることもまた「無明」であり、そんな「権威」は所詮は「虚仮」に過ぎません。


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