Kainoa Blog

音楽家社長 鴻池薫の音楽活動&レッスン記、思う事等 徒然日記
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僕のロックな話:1975ワールドロックフェスティバルのジェフベックその2

2011-08-11 10:53:00 | 僕のロックな話
ベックの演奏が終わり、見ていた我々はため息しかなかった。
本当に超ド級とはこういう事を言う。
バックのサポートは、キーボードが第二期ベックグループのマックスミドルトン、ベースはウィルバーバスコム、ドラムばバーナードパーディ。事前にメンバーは発表されていなかったと思うが確かベックのメンバー紹介でわかった事だ。ベースとドラムのリズムセクションは当時のモータウンで最高最強と呼ばれていた強者達だ。ドラムはスネアが割れちゃうんじゃないかと思うほどド迫力だった。キーボードのミドルトンが音をアウトするジャージーなソロを弾いた時ベックはギター弾くのを止め、3人の演奏に身をゆだねていたのも印象的だった。

ステージが終わりベックはまたリムジンに乗り去っていった。あとの3人のメンバーはステージから歩いてドレッシングルームの方へ戻っていき、観客は彼らを拍手喝采で送った。
ベックは突如として現れ観客を興奮のるつぼに叩き込み、我々を置いて去って行った、という言葉がぴったりだった。

その時誰もが知らなかった事だが、後日この時風邪か何かでひどく体調を崩していて出番を早めた事、そしてその後のツアースケジュールをすべてキャンセルしてとっとと帰ってしまった事がわかり、二度びっくりした。

この記事なおも続く…

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僕のロックな話:1975ワールドロックフェスティバルのジェフベック その1

2011-08-10 08:25:00 | 僕のロックな話
ワールドロックフェスティバルイーストランド
1975年8/7後楽園球場。
ステージはグラウンドの中に特設され、アリーナ席はない。客席は野球見るのと同じスタンドからの観戦状態だった。
ステージはバンドが複数出るのでもしかしたら2つあったような気もする。

一番手が日本のイエロー。
終わって転換。

どこからともなく一台の黒いリムジンが特設ステージに到着。黒人ミュージシャン2人がベース、ドラム、白人ミュージシャンがキーボードでセットアップ。そしてリムジンから出てきたのが何とジェフベック!
「ええ~!?」観客は本当にびっくりした。普通だったら大トリと誰もが思っていたからだ。
ドカカカガーン。ドラムがものすごい音でウォーミングアップ。ベックが一言しゃべるや(GoodEveningと言ったと思う)いきなりギターでフリーソロを弾きまくり始めた。観客はもうここでピーク。興奮のるつぼに叩き込まれた。ベックはギターを巧みにフィードバックさせながら1曲目ConstipatedDuckにそのまま突入。アルバムブロウバイブロウからの曲を中心に演奏した。
ギターは僕の記憶ではストラトキャスターだったと思う。
この日のベックはほとんどノーMCでギターに全身全霊没頭して神懸かり的。絶好調に見えた。
ブロウバイブロウ以外の曲ではBBA時代の代表曲スティービーワンダーのSuperstitionをベックがトーキングモジュレーターを使いインストルメンタルで演奏。これも観客は興奮のるつぼだった。第2期ジェフベックグループのオレンジアルバムからスライドギターをフューチャーしたインスト曲Ican'tgive backthe loveIfeelfor youも演奏。
縦横無尽のギターワークに観客は酔いしれた。
最後の曲は多分即興的に作られたワンリフ、ワンコードの曲。(後の音楽雑誌でPowerと記載されていた)段々テンポアップして観客の手拍子を煽るだけ煽り、興奮のピークに達した時ThankYouVeryMuchとベックが言って突き放された感じで終わった。


何回かに分けて続く…この時のジェフベックの全貌を語る

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僕のロックな話:プロ決意編その1

2011-07-13 21:50:00 | 僕のロックな話
『ボーヤ志願』

前記事では高橋信博師匠との出会いを書いた。以前にも書いたと思うがのちのちクラシックギターの師匠杉原俊範先生と出会う事になる。このお二人が僕の尊敬する大師匠だ。素晴らしい師匠と出会えて本当に幸せだと思っている。

1975年、ギターを学ぶ師匠は決まった。その他実地で音楽を学べる仕事はないだろうか?
兄に相談したら友達に話してくれたようである日家に来て、「バンドボーイの仕事だったらあるかもしれないよ。僕の知っている店のギターの人に会ってみるかい?」
バンドボーイとは通称ボーヤ。ミュージシャンの楽器運びなどをする仕事で、合間に演奏の事を教えてくれたりする。フルバンドが当時全盛だったので仕事はあるかもしれなかった。
とにかくまったく何のコネもなかったからプロの現場にちょっとでもはいれたら良かった。

兄、兄の友人に連れられて言った場所は確か銀座のお店だったと思う。定かでないがナベプロが新人育成のためにやっていたショーパブだったように思う。
兄の友人がそこで弾いているギタリストと知り合いのようで、僕の事を説明してくれていた。
「今時ボーヤからやりたいなんていう子は珍しいね。えらいよ。ただ僕の知っている限りバンド関係でボーヤは足りちゃってるみたいだから、聞いといてあげるよ。頑張ってね!」と大変親身になって話してくれた。
なかなかその世界に入っていくにはハードルが高かった。先ほどのギタリストの方(元GS)と知り合えただけでもうれしかった。

確かその年の夏、初めてバイトをした。観葉植物のリース。美容院やいろいろなお店に植物を持っていく仕事で、頭領?と二人で車で移動する。腰を悪くしない持ち方を教わった。なんだかんだで泥まみれに近くなるのだか初めてバイト料をもらった時はうれしかった。

昼間バイトがない時は午前中から渋谷百軒店街にあるジャズ喫茶スイングに行き、譜面の書き方などの楽典系の理論書を持ち込んで勉強をした。朝のスイングはガラガラで気持ち良かった。
この時期、しばしロックから離れジャズ的感覚を養おうとしていた。

先ほども書いたが、音楽業界に対しまさに何のコネももたずにひとつの希望に向け燃えていたと思う。
僕には本当に何もなかったのだ。

#この記事シリーズ、コメントは大いにいただいて結構ですが、基本的に返信コメントはいたしません。二重記事のようになってしまうのでご了承下さい。

僕のロック芽生え編その20 ジャズギターの師匠高橋信博先生との出会い

2011-07-12 08:20:00 | 僕のロックな話
1975年。
この年はいろいろプロになるために大学生活そっちのけでアクションを起こした年だった。
大学1年の時渋谷道玄坂にあるヤマハLMセンターのジャズギタークラスに入会した。最初の先生はスタジオミュージシャンみたいな人でコードの4度進行みたいな事を教えくれた。レッスン受けて2回目の時、「今日で僕はレッスンを辞める事になりました。でも次回から来る先生は本当のジャズをやっている方なので皆さんにとってはとてもいい事だと思います」と言われてしまった。次のレッスンの時、どんな先生が来るんだろうな?とドキドキしていた。そして次のレッスンの日、先生が教室に入って来て開口一番
「高橋です。この中でプロになりたいと思う人手を挙げて」
僕はすぐに手を挙げた。あと何人か手を挙げたと思う。
「はい、今手を挙げた人は今日から課題を最低6時間練習するように。じゃないと口聞いてあげないよ」
痛烈な言葉だった。待っていた言葉だった。
僕は胸の高鳴りを抑え切れなかった。
待ってました!
本当にうれしかった。この先生についていくぞ!
これが僕の尊敬するジャズギターの大師匠高橋信博先生との出会いだった。
それ以来ずっと今にいたるまで心の寄りどころにさせていただいている。
師匠の話は今後も様々な場面で登場していただく。

次回からは『ロック芽生え編20』から『ロック決意編1』へ

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僕のロック芽生え編その19 ジェフベックのブロウバイブロウ (1975)その2

2011-06-18 14:27:00 | 僕のロックな話
ジェフベック
ブロウバイブロウ
曲目

分かってくれるかい - You Know What I Mean (Beck, Middleton)
シーズ・ア・ウーマン - She's A Woman (Lennon-McCartney)
コンスティペイテッド・ダック - Constipated Duck (Beck)
エアー・ブロワー - Air Blower (Bailey, Beck, Chen, Middleton)
スキャッターブレイン - Scatterbrain (Beck, Middleton)
哀しみの恋人達 - Cause We've Ended As Lovers (Wonder)
セロニアス - Thelonius (Wonder)
フリーウェイ・ジャム -FreewayJam
ダイヤモンド・ダスト - Diamond Dust (Holland)


追記:
1975年は
ベトナム戦争が終結した年だった。
1960年から15年続いた戦争は社会に暗い影を落とし、ジャズやロック、ソウルなどの音楽に間違いなく影響を与えていた。
特にロックはベトナム戦争と切っても切れない音楽で、反戦、反体制思想からヒッビーの自然回帰運動まですべて含めてロック文化だったと言えよう。
ヒッピー文化への反省と衰退化は1969年のアメリカのヤスガー農場で行われたウッドストックフェスティバル以降であり、ロックの反戦、反体制思想は1975年のベトナム戦争終結によって一つの大義名分がなくなった事により音楽のあり方そのものが変質していく。
1975年はそれまでのロック文化の一つの終焉の年だったと言える。