Kainoa Blog

音楽家社長 鴻池薫の音楽活動&レッスン記、思う事等 徒然日記
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僕のロック芽生え編その18 ジェフベックのブロウバイブロウ (1975)

2011-06-18 12:54:00 | 僕のロックな話
1975年春だったか、ある日ラジオを何気にかけてたら、ジェフベックの新譜が届きましたので今日はその特集をします、とパーソナリティーがしゃべった。
僕はビックリしてその時してた事をぶん投げてラジオに聴き入った。
ソウルフルなカッティング、から綴られるベック節!でも回りのサウンドが違う。ジャズとロックの狭間の音楽。
オールインストのアルバム。
ベックよ、遂にその路線に入ったか!
ロックギターの神が遂にジャズシーンに挑戦状を叩きつけたかのように思えた。翌日渋谷のレコード店シスコに言ったら予約を受け付けていた。注文殺到していたのである。
やっとの思いで手に入れたベックのニューアルバム!
確か邦題が『ギター殺人者の凱旋』とかいう意味不明なタイトルだったと思う。A面はジャズ的なコード展開、ファンキーなベースとドラムでベックが水を得た魚状態で弾きまくる。
おお!トーキングボックス!
B面に針を落とすと「悲しみの恋人達」ああ、ギターが泣いているうねっている…。全般的にマックスミドルトンのフェンダーローズから繰り出すジャズコードアプローチが光っていた。

■振り返るに間違いなく1975年のベストアルバムである。あえていうがロックの。
リーリトナーがいようがラリーカールトンがいようが、アルディメオラがいようが、ベックのこのアルバムのリリースがその後のジャズロック系に絶大な影響をおよぼしたと断言する。クールに当時最先端のサウンド、ロックギタリストが「質」のみで勝負した初めてのアルバムだった。
ブロウバイブロウはセールスもダントツで、ジャズロックは隆盛を迎えた。
ジャズロックはクロスオーバーとその後呼ばれ現在はフュージョンとなった。
(現在フュージョンもジャズになっているが本来はジャズとは違うものだ)

ベックは当時ジョンマクラグリンのマハビシュヌオーケストラのサウンドに影響を受け、ジョージマーチンプロデュースのもと本作を発表した。
マハビシュヌオーケストラとジョイントコンサートをかなりやったようだ。
その後ベックはワイアードなどサウンドをどんどん先鋭化していく。
当時のベックはピック弾きだがいつからだろうか、右手は指弾きに転じて現在のまさに神業とも思えるフィンガーピッキング奏法の領域まで昇華させている。

この年の夏ベックは後楽園球場で開催されたワールドロックフェスティバルにブロウバイブロウセッションで出演する。

僕のロック芽生え編その17・大学1年在学時代2

2011-06-17 13:10:00 | 僕のロックな話
『インターナショナル・プレイヤーズ』
1975年
アーチーさんのバンド活動に参加したのとは別に自分のバンドを作るべくメンバーを探し始めた。
ドラムは高校からの同級生新井君は決まっていた。
ジミヘン、ベック、のギターにクール&ギャングのようなソウルバンドのリズムセクションの構想があった。
だからチョッパーも出来るファンキーなベースプレイヤーが欲しかった。たしかあの時「プレイヤー誌」にメンバー募集を出したと思う。
それで来たか誰かの紹介かは定かではないが、大森君というベース弾きが来た。大森君は180センチを超える長身でロングヘアー。見た感じもベースプレイヤーとして格好良かった。
あの時の僕のヘアスタイルは、ソウルバンド系に傾倒していたので何とパーマリーゼント!
僕の人生の中で一度だけツッパリ系?になった時がこの時だ。兄はツッパリ系だったので喜んでいたが。(笑)
新宿のそっち系が得意な理髪店を教えてくれたのも兄だった。
さすがにアフロヘアーまではしなかったが、大森君は僕のバンドに参加すると決まったらすぐにロンゲをアフロヘアーにしてしまった。
新井君もその後アフロに。
だからかなり見た感じガラの悪いバンドだったのではないか。
心はシラサギのよう、蟻も殺せない位やさしいのに。(笑)
ゆくゆくはアメスクの友達も何人か入れて国際色豊かなバンドにしたいなと思っていた。
三輪にモンドというライブハウスがあり、そこで何回かライブをやらせてもらっていた。
モンドのマスターは音に厳しく、ライブ終わってから我々のような明日を目指すバンドにアドバイスをしていた。
演奏曲はインストのオリジナルと英語で書いたオリジナルを中心、あとはブルース。

今思うと演奏はあら削りて稚拙だったが方向性はいいところにいっていたと思う。まだロックとファンクを融合しようとするバンドはあまりいなかった。
バンドは残念ながら1年足らずで自然消滅してしまった。
原因は僕がその後他のバンドに入団してその練習が忙しくなってしまった事だ。2人には本当に悪い事をしたと思う。

僕のロック芽生え編その16・大学1年在学時代

2011-06-16 20:06:00 | 僕のロックな話
『アーチーさん』
高校3年の冬休み位からだったろうか、1年上の先輩飯塚さんと親しくなったのは。飯塚さんとは高円寺ジロキチで何度かジョイントさせていただいているアーチーさんの事だ。
新中野のご自宅に大学在学時代は良く遊びに行ったり泊まらせてもらった。中野区のイベントで「オレたちの祭り」というタイトルだったと思うが場所は中野文化センター(今の中野ゼロ小ホールの建物)でのダンスパーティーに飯塚さんが出演する事になって僕も誘われ新中野の松栄楽器店のスタジオ(現スタジオミュージアム)で練習した。
メンバーは良く覚えていないがベースは高校から一緒にバンドやっていた同級生李君、もう一人のギターには飯塚さんの弟さんの同級生のK君、ドラムは加藤君だったかな?
二度目はアマチュア主催のコンサートで、文化センターのホールで、「ラビアル」というバンド名で、ドラムは同級生の新井君、宮川君がパーカッションとボーカルで参加。
あの時はスライの「ハイヤー」とかストーンズの「ホンキートンク・ウイメン」クラプトンの「ハブユーエバーラブザウーマン」「レットイットグロウ」やドゥビーの「ロングトレインランニング」やファンクっぽい曲もやったような気がする。

飯塚さんと趣味が一致していたのは2人ともプロレスファンだった事。兄がプロレスファンだった影響で僕はもともとアントニオ猪木が好きだった。
何せ猪木は世界最強、プロレスはキングオブスポーツと信じていたから。(今でも!笑)
飯塚さんも確か猪木ファンだったと思う。バンドの練習の後はよしふじというお店に行き、ロックやプロレスの話に話を咲かせていた。

【飯塚さん、李君と血気盛んな僕はその後大分時が経ってから某所で武勇伝を行う事になる。(笑)】
※その頃はニューミュージックが台頭してきていた。当時基本的には聴かなかったけど荒井由美の初期のアルバムは確かにいいと思った。
(ひこうき雲、ミスリム、コバルトアワーの3作。あと松任谷由美時代のヴェルヴェットイースターはすごく印象に残っている)

話がそれたが、アーチーさんはバンド活動を継続し今も高円寺ジロキチでブルース歌っているのは素晴らしい事だ。
また機会があればぜひジョイントしたいと思っている。

【この記事はアーチーさんにもご協力い

僕のロック芽生え編その15高校時代によく行ったロック喫茶

2011-06-15 11:21:00 | 僕のロックな話
当時ロック喫茶はゴロゴロあった。中学3年の時初めて行った渋谷のBYGはよく行った。その頃は靴脱いで入る絨毯喫茶だったのでいい靴はいていくとかっばわれた。(笑)ブリティッシュロックがガンガンかかっていてかなり怪しい雰囲気だった。時が経ちBYGは今でも渋谷百軒店街に存在している。今はアメリカ音楽専門のようだが、もう何十年やっているのだろう?1969年に初めて行ったのだからほとんどのロック喫茶が壊滅した中40年以上経営出来ているのは奇跡的だと思う。
原宿のビルの何階かにDJStoneというロック喫茶があった。ここにはなんとジミーペイジのソックリのボーイさんがいて、オーダーする時なぜかドキドキしたものだ。(笑)
この店ではショータイム?みたいな時間があっていきなり照明を暗くして天井を星空のようにライトを変化させてキングクリムゾンのファースト『コートザクリムゾンキング』の2曲目の名曲「アイ・トーク・トゥ・ザ・ウインド」をかけてくれたりしていた。
あと渋谷センター街にアナザーサイドというロック喫茶が高校時代に新たに出来た。行ったら駒場東邦のバンド仲間とかが来ていて完全にロック小僧のたまり場になっていた。
新宿の歌舞伎町にはレインボーというロック喫茶があり、ここもよく行った。DJがいてリクエストを沢山かけてくれる店だった。
新宿にはローリングストーンもあった。
また新宿にはロック喫茶ではないが、風月堂という喫茶店があり、ロックバンド、学生運動活動家、アート系、ヒッピー系のたまり場だった。コーヒー一杯でいつまでもねばれていたのではないか?

自由が丘に友達がいて駅から踏み切り超えて住宅街の方にレノンという喫茶店があった。
生まれ育った駒場東大前の商店街にもロック喫茶系があった。名前は忘れてしまったが、東大が近くにあるので学生運動系の大学生がよく討論していたのを覚えている。僕は自分の好きなレコードを持っていきかけてくれた。
すべて実際に行った店で1970年代前半の記憶である。

よくよく考えたら中学、高校時代になんか絶対に行ってはいけない店だったんだろうな。(笑)
もちろん基本はソフトドリンクだったと思うが何をオーダーしていたのかは覚えていない。でもアルコールやタバコを覚えたのもこの頃だった事は正直白状しよう。(笑)
セブンスター100円、ハイライト80円
の時代である。
ワルロック少女は洋モクの長いタバコが定番。

高校時代からは髪の毛が自由だったのでだんだんロンゲにしていった。Gパンはコンポッパー、靴はSAのロンドンブーツ。女性用のジャケットやシャツがかっこいい、との事でそんな事もしていた。
グラムロックが流行った時は化粧したロック小僧も多かったが、さすがにそれはやらなかった。
今から思うとみんなずいぶん滑稽な装束で街を歩いていたと思う。
ロンドンブーツなんてみんなどうしただろうな?
今ロンドンブーツって言ったらお笑いグループの事になっちゃう。
でも70年代のファッションは時代を超え今も生きている。そのエッセンスは大好きなのでGパンも裾広がりのものを買ってしまう。
ブーツカットっていうんだね、その種類。昔はパンタロンって言ってたんだよ。(笑)
やっぱり僕は70年代の人間だな~ってつくづく思う。

その時代は政治、文化もろもろ含めて明日いつも何かが起こるような期待と緊張がある毎日毎日が「前夜」の時代だったんだよ。

僕のロック芽生え編その14 高校3年の時続き~大学進学

2011-06-14 11:57:00 | 僕のロックな話
ずいぶん書いてなかったけど確か前は高校3年の文化祭まで書いたと思う。

文化祭以後同級生にジャズギターやっているのがいると聞き、別のクラスだったと思うが親しくなった。学校にフルアコのギター持って来て僕の前で弾いてくれた。ロックのチョーキングなんて使わずゴリゴリ弾くスタイルに仰天したね。
彼の家に遊びに行って、まるで部屋の中の様相が違うんだよ。こっちの部屋はベックのポスターみたいなのが貼ってあるけど、ケニーバレルのポスターかなんかが貼ってある。とにかく大人の雰囲気なんだよ。何もかにもが新鮮に映ったね。
一度セッションしようって事になって渋谷のサイトウ楽器で何かやった覚えがある。共通の音楽はブルースだったので、彼はジャズのブルース、僕はロックのブルースで遊んだと思う。
こっちの練習が終わって、下の階に降りてきたら、大学生とおぼしき人達がやっぱりジャズの練習していた。我々は図々しくも、スイマセンちょっと聴かせていただいていいですか?と頼んで入れてもらった。
記憶ではギタートリオだったと思うけど、それぞれのメンバーの横に彼女だと思う女の子が座ってうっとり聴いているんだよ。後でスタジオから出てきて、こっちのメンバーはみんな「いいなあ~カッコいいなあ~」って羨ましがっていた。その後真似してそういう練習したかどうかは定かでない。(笑)
当時ギターでプロになるにはジャズギターのテクニックやらないとと思っていた彼のような友人が必要だった。
ギターで今までと何か違う事を欲しかった。
彼から借りた初めて聴くジャズギターのアルバムはケニーバレル。タイトルは忘れたがその中に入っていたグリーンスリーブスのギターソロをコピーした。
ちなみにその彼とは今でも親しい友人として交流している。
自分の道がよく定まらない内に何とかギリギリ学習院大学に進学。
最初はちゃんと学校行っていたがそのうちあまり行かなくなってしまった。
どうしても学校の柔い雰囲気がなじめなかった。キャンパスって感じが。(笑)軽音楽部にも入らなかった。
今考えると本当に贅沢な悩み、考え方がアマチャンだったと思う。