この処天気が悪くて写真撮影に出かけられず、家のなかで腐っている。
五木寛之の連載小説「親鸞」から一寸失敬した。
親鸞はうなずいていった。
「しかし、虫を殺さずに田をたがやすことはできますまい。また、稲は人に食べられようとして実を付けるのでしょうか。山川草木すべてに命がある、と思えば、われらは他の命をいただくことでしか生きられない悲しい存在なのです。そうは思われませんか」
「思わねなぁ」
と、一人の日やけした男がいった。
「とったばっかしの魚食ったり、うめえ飯食ったときは、うれしくてたまんねよ。牛馬は、人につかわれるために生まれてきたんだっぺ。稲も、野菜も、人が食って、なんぼのもんだっぺな」
あちこちからいっせいに笑い声が起こった。
さすが五木さんは上手いこと言葉を探してきます。私を小説の世界に引きずり込んでいく。
毎日食事の度に手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えるものですから家内はおかしくてたまらないと腹を抱えてわらっている。
そうですね。私たちは生き物の命を捕って生きているのです。「南無阿弥陀仏」と唱えなければ罰が当たります。
何もしなくても私達は何億と言う微生物を足で踏みつけて歩いているそうです。
前回お話しした三途の川に架かっている橋は金銀七宝で飾られているそうだが、果たしてめでたく渡れる人がいるのでしょうか?