触ること
法話会に行ったら、一冊の小冊子をくれました。「終の住家での看取り」という見出しでした。
昨年6月に金沢東別院で東京大学名誉教授が講演された物を纏めたもののようです。
それを読んで思ったことを少し書いてみたいと思います。
一部抜粋
あるお宅に往診に行きました。呆け老人の患者さんは離れてぽつんと和服を着て座っていらっしゃるのですが、あまりに寂しそうにしておられるものですから、彼女の横に坐って、肩をちょっと抱いたのです。そうしましたら、彼女は涙をポロポロ流して、嗚咽しはじめました。なんでそういうことになったのか、その時は判らないかったものですから、わたしはびっくりしました。
アメリカの心理学教室の実験ですが、そこに図書室を作って、図書館の司書に図書の受け渡しの時にスウッと、ほんの少しですけど借り手を触ってもらったのです。相手にとってはさりげなく触れられていますけども、触れられたということさえ覚えていない人が多い。
しかし実に不思議なものですけれども、後に司書の人の印象を訪ねてみますと、触れられた人はその司書にいい印象をもっていることがわかったのです。好感をもつのです。
つまり、わたしたちの意識の上に登ってこないかもしれないけれども、脳は触られた事実を記録している、つまり、意識には登らないけれど無意識に記憶しているわけです。
ですから、触るということは、触れられた側の人の、「好き」、「嫌い」の印象を決定するかという意味で、非常に大切なのです。
けれども、そういうような認知症の老人に触る時に、けっして顔を触ってはいけません。前からさわってもあまりよくありません。最初は背中からです。背中をそっと撫でてあげるのです。
同じ行為でも、前から見ますと、殴られているみたいで、恐い感じがします。ですから、必ず後ろの方からです。あるいは、斜め横の方からです。能にはちゃんとそういう信号がいっているわけですね。――
スキンシップは重要だと聞いていますがなかなかできることではない。人と接する時は会話だけではないのですね。
手を触られただけで、その人がいい人だと感じるとは何か恐い物を感じます。
お買い物してきてちょうだい。