額東神社
由緖 創立は奈良時代の神護 景雲2年(768)と伝え 初めは額山に鎮座したという額地方の東部に位置するので額東神社と称したのである 新年祭に国幣にあずかった 延喜式内の名社である 中世には加賀の守護富樫氏の崇敬が厚く家臣の金子氏が奉仕にあたったと伝え一向一揆の兵火にかかって現地に移転したといわれている 古くから額7ヶ村の総社と仰がれ近世には山伏の宝高寺が奉仕したという
明治初年に村社に到し 同33年には郷社に昇格同41年には額谷の道勲神社(国底立命を祭る)を合併したついで1550年祭にはもと出雲大社宮司司法大臣男爵千家尊福氏が「いでないて仰はうれし久方の天のみ柱めぐる月日を」という祝賀の歌を寄せた
祭神の仔邪那岐命(いざなぎのみこと)は天照大神の父神であり国底立命(くにのそこたちのみこと)は国土の様源での神として知られる。
神社境内
このお宮さんには巨木が2本ある。
その内一本は、樹高22メートル、幹周り2.97メートル、枝巾16メートルと言うから、
境内一杯に枝が広がっていると言う事か?
手水所
ここの手水鉢 には、龍の代わりに、石が巧みに積み上げられている。
本殿
神社の土台を支えているのは、お城の石垣のようで、色とりどりで巧みに積み上げられている。
摂社道勲社
人の顔に見える最少条件は・・・・・。
どう見ても人の顔に見える。