タイトルにしたように、
私は人に騙されることはあっても、
人を信じることのできる人のほうが人間としての価値が高いと思う。
先日、わざわざその家を訪問した高校時代の親友が、そういう人なのである。
彼女は、見方によればバカにも見えるくらい、いい人である。
彼女は料理が上手なので、
人においしいものを作って食べさせることが生きがいのような人でもある。
が、現在は、ほぼ失明しているから、昔のようなバラエティに富んだ料理はできない。
それでも、私が行くことが手前からわかっているときは、
今でも精いっぱいのごちそうの準備をして待っていてくれる。
天ぷらとかはできないから、
煮物、汁物がメーンになるが、おいしい刺身やかまぼこも準備してくれてある。
目が見えないから、白杖をついて買い物に行って作っておいてくれるのである。
まるで見えるかのように台所仕事をするから、「なぜ、見えないのにできるの」と聞くと、
彼女は、「慣れた台所だから」と答える。
それと、物を仕舞ったときは、全部記憶しておくそう。
家の中は、目が見えない人と思えないくらい、きれいに整えられている。
目が見える頃から家の中は綺麗にしていたが、目が見えなくなっても同様にしている。
それと感心するのは、目が見えないのに今でも明るいことである。
もちろん口には出せない辛いことはいっぱいあると思うが、冗談も言うし、よく笑う。
目が見えなくなった自分の失敗談も面白おかしく話してくれる。
対する私は、耳が聞こえなくなって、性格が暗くなった。
が、彼女は、相変わらず明るいのである。
私は、
目が見えなくなるほうが、
耳が聞こえなくなることよりも、生きていく上でのダメージが大きいと思うが、
彼女が、それに負けないでいることが私には大きな励ましになる。
彼女は、目が見えなくても、福祉の助けを借りて、めいっぱい人生を楽しんでいる。
読書好きだった彼女は、現在は図書館で音声朗読の小説を借りて読んでいるという。
彼女の弁によると、
小説は自分の目で読むより、耳から聞いたほうが、ずっと心に沁みるらしい。
声で聴いたほうが、目で読むより、直接こころに語りかけてくると言っていた。
前に行ったときは山本周五郎の音声朗読の本を借りてきて読んでいると言っていた。
日曜日に行ったときは、
私の参加している短歌結社の前主宰であった永田和宏氏の本を読んだと言っていた。
そういうふうに、
今でも、音声からではあるが、読書をする人なので、話題が豊富である。
彼女のお連れ合いは、新聞にも連載を書いていたような人なので、話題が豊富だ。
だから、彼女の家を訪問することは、私に、二重三重の喜びをもたらしてくれる。
と、
前置きが長くなりすぎてしまったが、
私が今書きたいことは、
その彼女の心の綺麗さである。
5人兄弟の末っ子に生まれた彼女は、
両親から特に可愛がられて育ったせいか、人を疑うことを全くしないし、できない人だ。
もともと私たちの母校はお嬢様学校だったから、
性格の悪い人は皆無といっていいような校風であったが、
その中でも彼女は群を抜いて”いい人”であった。
私たちがまだ在校中の三学期のある日、
登校すると、
彼女は、お年玉付き年賀状で当たったという切手を私に差し出す。
その頃は、切手が今よりずっと価値のある時代であった。
私が、「どうして?」と聞くと、
「これは、あなたからもらった年賀状が当たっていたのだから、あなたのものよ」という。
「え、それは、年賀状を受け取ったあなたのものよ。私はもらう権利はないわ」と言って、
お互いに押問答したことがあった。
が、結局、彼女の言い分に負けて、私は切手をいただいてしまったが、
それにしても、一事が万事で、彼女は自分が損しても人のためを考える人であった。
だから、ときには人に騙されるようなこともあった。
私は、そんな彼女のことを歯がゆく思うこともあったが、
しかし、他の友人たちも、そんな彼女の美点は見抜いていた。
それで、彼女は、友人間でも、抜群に人望があった。
私は、彼女には、人間的に、とても敵わないと思った。
どうして私が、今日、こんなことを書いているかというと、
昨夜、blog友さんの次のような記事を読ませていただいたからである。
☟
「遠い日の記憶/追々補」
この記事に対して私はコメントを残させていただいたが、この記事の管理人さんには、
「反論は、この記事を引用してもいいから、ご自分のblogで、どうぞ」と
言っていただいたから、こうして記事に引用させていただいている。
私は、この親友のことを考えたとき、
たとえ人に騙されても、
人を信じることのできる人のほうが人間としての価値が断然高いと思うのである。
私は人に騙されることはあっても、
人を信じることのできる人のほうが人間としての価値が高いと思う。
先日、わざわざその家を訪問した高校時代の親友が、そういう人なのである。
彼女は、見方によればバカにも見えるくらい、いい人である。
彼女は料理が上手なので、
人においしいものを作って食べさせることが生きがいのような人でもある。
が、現在は、ほぼ失明しているから、昔のようなバラエティに富んだ料理はできない。
それでも、私が行くことが手前からわかっているときは、
今でも精いっぱいのごちそうの準備をして待っていてくれる。
天ぷらとかはできないから、
煮物、汁物がメーンになるが、おいしい刺身やかまぼこも準備してくれてある。
目が見えないから、白杖をついて買い物に行って作っておいてくれるのである。
まるで見えるかのように台所仕事をするから、「なぜ、見えないのにできるの」と聞くと、
彼女は、「慣れた台所だから」と答える。
それと、物を仕舞ったときは、全部記憶しておくそう。
家の中は、目が見えない人と思えないくらい、きれいに整えられている。
目が見える頃から家の中は綺麗にしていたが、目が見えなくなっても同様にしている。
それと感心するのは、目が見えないのに今でも明るいことである。
もちろん口には出せない辛いことはいっぱいあると思うが、冗談も言うし、よく笑う。
目が見えなくなった自分の失敗談も面白おかしく話してくれる。
対する私は、耳が聞こえなくなって、性格が暗くなった。
が、彼女は、相変わらず明るいのである。
私は、
目が見えなくなるほうが、
耳が聞こえなくなることよりも、生きていく上でのダメージが大きいと思うが、
彼女が、それに負けないでいることが私には大きな励ましになる。
彼女は、目が見えなくても、福祉の助けを借りて、めいっぱい人生を楽しんでいる。
読書好きだった彼女は、現在は図書館で音声朗読の小説を借りて読んでいるという。
彼女の弁によると、
小説は自分の目で読むより、耳から聞いたほうが、ずっと心に沁みるらしい。
声で聴いたほうが、目で読むより、直接こころに語りかけてくると言っていた。
前に行ったときは山本周五郎の音声朗読の本を借りてきて読んでいると言っていた。
日曜日に行ったときは、
私の参加している短歌結社の前主宰であった永田和宏氏の本を読んだと言っていた。
そういうふうに、
今でも、音声からではあるが、読書をする人なので、話題が豊富である。
彼女のお連れ合いは、新聞にも連載を書いていたような人なので、話題が豊富だ。
だから、彼女の家を訪問することは、私に、二重三重の喜びをもたらしてくれる。
と、
前置きが長くなりすぎてしまったが、
私が今書きたいことは、
その彼女の心の綺麗さである。
5人兄弟の末っ子に生まれた彼女は、
両親から特に可愛がられて育ったせいか、人を疑うことを全くしないし、できない人だ。
もともと私たちの母校はお嬢様学校だったから、
性格の悪い人は皆無といっていいような校風であったが、
その中でも彼女は群を抜いて”いい人”であった。
私たちがまだ在校中の三学期のある日、
登校すると、
彼女は、お年玉付き年賀状で当たったという切手を私に差し出す。
その頃は、切手が今よりずっと価値のある時代であった。
私が、「どうして?」と聞くと、
「これは、あなたからもらった年賀状が当たっていたのだから、あなたのものよ」という。
「え、それは、年賀状を受け取ったあなたのものよ。私はもらう権利はないわ」と言って、
お互いに押問答したことがあった。
が、結局、彼女の言い分に負けて、私は切手をいただいてしまったが、
それにしても、一事が万事で、彼女は自分が損しても人のためを考える人であった。
だから、ときには人に騙されるようなこともあった。
私は、そんな彼女のことを歯がゆく思うこともあったが、
しかし、他の友人たちも、そんな彼女の美点は見抜いていた。
それで、彼女は、友人間でも、抜群に人望があった。
私は、彼女には、人間的に、とても敵わないと思った。
どうして私が、今日、こんなことを書いているかというと、
昨夜、blog友さんの次のような記事を読ませていただいたからである。
☟
「遠い日の記憶/追々補」
この記事に対して私はコメントを残させていただいたが、この記事の管理人さんには、
「反論は、この記事を引用してもいいから、ご自分のblogで、どうぞ」と
言っていただいたから、こうして記事に引用させていただいている。
私は、この親友のことを考えたとき、
たとえ人に騙されても、
人を信じることのできる人のほうが人間としての価値が断然高いと思うのである。