かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

孫の運動会

2019-10-05 09:09:33 | ブログ記事
次男夫婦はまだなので、私達だけお年寄り用の優先座席に座らせてもらって待っています。


 
遅れて次男一家が到着。

お嫁さんのご両親も来られました。

プログラムです。


次男と孫です。孫は寝起きだそう。

孫はパパの膝の間にすっぽり納まっています。😁

孫の出番ですが、まだ赤ちゃんなので、パパに抱っこされて参加です。


退場です。 


また出番ですよ。

孫は抱っこされてばかりだから、パパの運動会みたいですね。😄









運動会が終わってから、次男の奢りでトンカツ屋さんへ。

そのあと、お嫁さんのご両親と別れて、夫はシニアカレッジへ、私は高知行き高速バスに乗るために電車で舞子駅へ。

次男と電車が大好きな孫が舞子駅まで送ってくれました。


今日の午前中は孫の運動会に行き、その後ひとりで帰省してきます

2019-10-05 01:30:45 | ブログ記事
今日といっても、まだ真夜中ですが、
目が覚めたので書いておきます。

タイトルにしたように、
午前中は孫の保育園の運動会を見に行き、そのまま舞子から高速バスに乗って帰省します。

帰省して、お墓参りをしてくるのです。

毎年、お彼岸のころはまだ暑くて帰省できないのですが、
やっと朝晩は涼しくなりましたから、自分の実家のお墓参りだけしてきます。

夫の実家のお墓参りは夏前に墓掃除を兼ねてお参りしましたから、今回は行きません。

夫の車での帰省でしたら両方いけるのですが、私ひとりでバスと電車ですから。

私の実家のお墓は山にありますから、駅から歩いてお墓まで行けるかどうか心配ですが、
頑張らなくては!

夫と帰省したときは両方に行くことは、あまりありません。

夫の実家のお墓は私たち以外に行く人がありませんから、
行ったときはお墓掃除が大変なので、それだけで疲れますから。

それに私は嫁いでいますから、
実家のお墓は一応、兄嫁とか甥が守ってくれているはずですし。

しかし、私の気持ちとして、
やはり実家の両親、今年七回忌だった兄のお墓参りをしたいのです。

兄の七回忌は帰りませんでした。

まだ暑い時期だったのと、
今年の9月は兄嫁のお父さんの一周忌もありましたから、
兄嫁も忙しいだろうと遠慮しました。

ホテルは高知市内のホテル2か所に一泊ずつ予約しました。

一泊だけでは強行軍になってしまいますから。

明日は日曜日なので、お城下の日曜市にも行ってくる予定です。

ということで、
道中投稿できたらしますが、
できないかもしれないので、あらかじめお知らせしておきます。

コメントには人を不快にする言葉を書かないようにいたしませう

2019-10-04 20:52:10 | ブログ記事
まだ不快なコメントの不快が消え切っていないから、また書きます。
(これが敵の思うツボかもしれませんが・・・)

先日、私の記事のコメント欄に私の記事を批判するコメントを書いてこられた方がいて、
そのいただいたコメントをそっくりそのまま転記した記事にして、
コメント返しをさせていただきました。

そうすると、その方は、コメントの全文を写していないと文句をおっしゃるのです。

私がいただいたコメントから省いた文章は、
「わたしはあなたの意地悪さを感じました。悪しからず。」部分だけです。

こんな不快な文章まで引用する必要性を感じなかったから省いたのでしたが、
そのことをまたわざわざコメントしてくる人の人間性を疑います。

私がそう書かれたことを恥じて省いたと思われたかもしれませんが、
そうではありません。

わざわざ皆様に見ていただいて、
関係ない方々まで不快にしてしまうことを懸念して省いたのです。

コメントしてこられた方が、私のことを意地悪と思われることは勝手ですが、
そんな悪態の言葉まで、わざわざ記事にすることは、私のなけなしの美意識が許しません。

ですが、
コメントいただいたことには一応の敬意を表して記事にして、お応えさせていただきました。

その記事は、現在保留にしてありますが、そのうちまたアップしなおします。

保留にしてあるのは、こういう五月蠅いコメントをいただかないための自衛策です。

「五月蠅い」ではわかりにくければ、「しつこい」と受け取っていただいても結構です。

blog記事は基本匿名です。

そして、コメントしてこられる方も匿名です。

ハンドルネームなんていうものは架空の名前ですから・・・。

しかし、記事を書いている者の匿名性は脆弱です。

住所など、いくらでもblog記事から推測できますから。

それと比べれば、コメントしてこられる方の匿名性は盤石です。

特に、こういうふうに人を攻撃するだけのコメントを付けてくる人の匿名性は・・・。

だからこそ、人のblogに書くコメントは、その人を非難するものは遠慮するべきです。

一昨日、私のコメント欄に「全文を載せていない」と文句を言ってこられた方のために
この記事は書いています。

これも、ブロガーとしての私の良心からです。

「感受性が強い女性」さんが、
万一、私のblog以外のブログにも、こういう心ないコメントを付けているとすれば、
あなたの幸福度が急降下してしまうことを心配して、
今後、なさらないように老婆心より申し上げる次第です。

雲雀丘花屋敷駅

2019-10-04 13:14:22 | ブログ記事
先日ブログ記事「体力の衰え」に書いた雲雀丘花屋敷駅がネットの話題にされていたから、

夫や娘に読ませてあげたくて記事にさせていただきます。

これが、その記事です。☟

大阪・阪急電車の“ナゾの終着駅” 宝塚線「雲雀丘花屋敷駅」には何がある?

クリックするのが面倒な人のために文章の部分だけ転記させていただきますね。

文春さん、ダメなようなら、あとで削除します。

ここからが転記になります。☟

 梅田、といえば大阪はキタの中心地。JRに乗って訪れれば大阪駅で降りることになるが、阪急や阪神、地下鉄ならば梅田駅である。ところが、そんな梅田駅の駅名が10月1日から変わるという。新しい駅名は「大阪梅田駅」。頭に“大阪”を付けるだけで、つまるところ当地に不慣れな外国人観光客などにもわかりやすくしようということのようだ。同時に阪急では河原町駅が京都河原町駅に、石橋駅が石橋阪大前駅に変更される。
そもそも「雲雀丘花屋敷」は何と読む?
 と、いきなり阪急の駅名の話から始めたが、今回のテーマはそこではなく……“大阪”梅田駅から阪急宝塚線に乗って向かう終着駅、「雲雀丘花屋敷駅」である。この駅は阪急の中でもとりわけ“ナゾ”の多い終着駅ではないか。阪急電車の主要3路線である神戸線・京都線・宝塚線は、いずれも梅田から発してそれぞれ神戸三宮・河原町・宝塚に向かう。三宮と河原町は言わずと知れた神戸・京都の中心地。宝塚はあの宝塚歌劇団の本拠地であり、どれも知名度は全国区、世界レベルである。だからナゾの終着駅など基本的にはないはず。ところが、宝塚線だけは宝塚行きだけでなく雲雀丘花屋敷行きという電車が盛んに走っているのだ。
 時刻表を見てみると、日中の宝塚線は2本に1本が雲雀丘花屋敷行き。急行が宝塚行きで各駅停車が雲雀丘花屋敷行きという案配だ(ちなみに急行は各駅停車の9分後に梅田駅を発車し、途中で追い抜くことはない)。おかげで神戸線や京都線のユーザーも梅田駅や十三駅でしばしば「雲雀丘花屋敷行き」の電車を見かけることになり、ナゾが深まるばかりなのだ。
 そもそも、読み方がわからない(“ひばりがおかはなやしき”である)。筆者もかつて京都に住んでいたときに阪急電車をよく利用していたが、「雲雀丘花屋敷」という行き先表示を見て「うんじゃく……?」などと首を傾げていた記憶がある。画数の多い漢字6文字の駅、なんとも気になる存在なのだ。
「学生専用」階段がお出迎え
 というわけで、実際に雲雀丘花屋敷駅を訪れた。阪急宝塚線の各駅停車で豊中や池田といった北摂の住宅地を抜けて、その間に駅名変更が予定される石橋駅も通り過ぎ、約30分で雲雀丘花屋敷駅に到着する。乗客を全員降ろした電車はそのまま駅の西側にある車庫に向かって去ってゆく。
 今も反転フラップ式(文字の書かれた板がパタパタと回転するアレ)の発車案内があるホームから改札口へは階段を降りて地下通路を通る。駅舎はホームの東側とほぼ中央に2カ所あり、さらに西側には「学生専用」と看板が掲げられた階段もあった。そこからは小学生から高校生までまさに学生たちが盛んに登ってくる。駅の南西に雲雀丘学園という私立校があって、そこに通う子供たちが利用するための出入り口があるようだ。
“阪急らしい”高級住宅地だが……
 筆者がそこの出入り口に行けるわけもなく、ホーム中央部北側に位置する出入り口に向かう。取り立てて特徴があるわけでもない武骨な駅舎から外に出ると……そこはひばりが囀る田園地帯でもなければ遊園地があるわけでもなく、ただの住宅地であった。駅前のロータリーもなく、駅舎のすぐ目の前に大きな家(邸宅と呼ぶのがふさわしい)が建つ。さらに少しあたりを歩き回ってみると、建ち並んでいるのは大きく立派な家ばかり。そう、雲雀丘花屋敷駅の周辺は高級住宅地なのである。
 雲雀丘花屋敷の街を歩きながら、さすが阪急沿線だなあと思う。阪急はその草創期、鉄道を通して沿線の宅地開発を行うという経営手法で規模を拡大してきた。その手法は首都圏でも現在の東急などが取り入れており、今や私鉄経営の王道。きっとこの雲雀丘花屋敷も、そうした阪急が開いた街のひとつなのだろう……。そう考えて調べてみたら、まったくの的外れであった。
もともと「花屋敷駅」と「雲雀丘駅」があった
 もともとこの地域には、宝塚線開通とともに花屋敷駅が設けられた。その場所は雲雀丘花屋敷駅よりも少し東側。1910年の開業である。直前に開発された花屋敷温泉に因んで名付けられたものだという。その後、北に長尾山の丘陵が広がるこの土地に目をつけた阿部元太郎という人物が中心となって、宅地開発の中心とするための駅設置を要望。1916年に雲雀丘駅が開業する。これは今の雲雀丘花屋敷駅よりわずかに西に位置していたという。そして駅を中心として高級住宅地・雲雀丘を築いていった。つまり、阪急が自ら手がけた街ではなくて、まったく別の人物によって開かれた街がルーツだったのだ。ちなみに東京の田園調布を開発した五島慶太もしばしば雲雀丘に視察に訪れていたらしい。
 1928年には新花屋敷温泉といういわばレジャー施設のようなものが作られて、花屋敷駅から温泉までトロリーバスが運行されていたこともあるという。トロリーバスというのは架線から電気を取り入れて走るバスのこと。バスといっても法律上は鉄道(無軌条電車という)で、今では立山黒部アルペンルートに1路線あるだけだが、かつては東京や大阪などの主要都市で見られた乗り物。そのトロリーバスが日本で初めて走ったのがこの花屋敷らしい。高級住宅地の一角も、実は日本の交通史に大きな足跡を残していた。
駅統合「運命のジャンケン決戦」とは
 さて、雲雀丘花屋敷の町は、このように雲雀丘駅と花屋敷駅という2つの駅に挟まれるような場所に位置して発展してきた(地域名も雲雀丘と花屋敷に分かれている)。その両駅が合併して現在の雲雀丘花屋敷駅ができたのが1961年。どちらかというと雲雀丘駅の方に近かった。こうした駅統合は中間に新駅ができればいいのだがそうでない場合は場所で揉めるのが常。そこで雲雀丘と花屋敷それぞれの自治会長がジャンケン決戦、雲雀丘自治会長が見事勝利して、雲雀丘寄りの現在地に決まったという。それでも納得できない花屋敷サイドは統合反対運動を繰り広げ、雲雀丘花屋敷駅が開業してからも約1年間は花屋敷駅が存続することになった。“閑静”という言葉がよく似合う高級住宅地にある“ナゾの終着駅”にも、ドラマがあるものだ。
 そんなわけで、雲雀丘花屋敷駅の旅も終わりである。他の終着駅とは違い、本来の路線の終点よりも手前にある駅だから寝過ごして行ってしまってもさほど被害はない(むしろそういう扱いの駅ではなく、宝塚に行きたいのに雲雀丘花屋敷行きに乗ってしまう方が被害はちょっと大きい)。だからそういう意味では“終着駅の旅”としては少し異質だろう。けれど、京阪神で暮して特に阪急を使っている人なら決まって気になる「雲雀丘花屋敷」。そこには、画数の多さ以上に興味深い歴史が詰まっていたのであった。



*

私の追記

大阪梅田から発車する電車の半分が「雲雀丘花屋敷駅行き」であるのには、
次のような理由があると思います。

阪急宝塚線の終点は宝塚駅ですが、
宝塚駅には阪急神戸線西宮北口駅とつながっている今津線という路線があります。

阪急今津線というのは有川浩の小説『阪急電車』の舞台になった路線です。

それで、阪急宝塚沿線の人たちが神戸に行くのには二通りの行き方があります。

ひとつは宝塚駅まで行き、今津線の乗り換える行き方。

もう一つは、
梅田行きに乗り、十三駅という三線(京都線、宝塚線、神戸線)の分かれる駅まで行き、
神戸線に乗り換える行き方です。

どちらの行き方で行くのが早いかということになるのですが、
この分岐点が雲雀丘花屋敷駅あたりになるのです。

すなわち、
雲雀丘花屋敷駅より宝塚駅に近い人たちは
宝塚駅で乗り換えて今津線で行くほうが早いですし、
雲雀丘花屋敷駅より大阪寄りの人たちは
梅田行きに乗り、十三駅から神戸線に乗ったほうが早く着くのです。

我が家の最寄り駅は雲雀丘花屋敷駅の一つ大阪寄りの川西能勢口駅ですから、
十三に戻ってから神戸線で行くのが若干早いのですが、
しかし、ごみごみした都会に向かうより、
山沿いの住宅地を走る今津線のほうが気持ちがいいから、しばしば今津線回りで行きます。

長々と書きましたが、
宝塚線の半分が雲雀丘花屋敷駅行なのは、
雲雀丘花屋敷駅より大阪寄りの住民が今津線の利用をすることは稀なので、
雲雀丘花屋敷駅を終点にするのは理にかなっているのです。

それより宝塚駅寄りの宝塚市住民だけしか宝塚駅まで乗車しないから、
半分でも十分なのです。

そういう意味では、雲雀丘花屋敷駅というのは折り返し駅とも言えますね。

*

★生きてゐしころの中島らも邸はいづこにありや雲雀丘の

★いまバスの走る坂道走りゐしトロリーバスの花屋敷駅

★花屋敷温泉いづこでありしやと探して歩く坂道きつし

★眺めよき家と言へども急坂を登りいかねばならぬ住宅

★長尾山切り開きたる花屋敷雲雀丘の眺めは広し

★宝塚歌劇に近く二階から大阪平野みえる見晴らし

★山端(やまべり)を走る阪急電車には花屋敷駅ひばりがおか駅


書くことは私の必然であり、またそれを読んでいただくことは喜びでも

2019-10-04 06:56:09 | ブログ記事
ありますが、
自分と違う考えをもった人に悪意のコメントをいただくことは私を疲弊させます。

人の考え方は百人百様です。

夫婦でも違いますし、自分の産んだ子供でも違う考えをもっています。

だから、私の場合、夫にも子供達にも私がblogを書くことを反対されます。

私が最初から秘密にしていればよかったのですが、
最初のころは家族通信のような気持ちで始めたから
皆にblogのことを教えたことが間違いでした。

私は聴覚に障碍があり、日常的に人と話す機会に恵まれません。

まったく会話ができないというわけではありませんが、
聞こえがよくないので、自分自身疲れるだけではなく、
相手の人をも疲れさせるのが辛いから、なるべく口頭での会話は避けています。

紙に書いていただくことも面倒がる方が多いですから、それも遠慮してしまいます。

ですから、blogを書くことは、私にとって、会話の役目も果たしています。

blogを書くことの効用は私にとって計り知れないのですが、
何でも書いてしまうことによって、周囲の人との争議が発生したり、
モチーフにさせてもらった方、あるいはその関係者と思しき方からの抗議もあります。

しかし、生きている人の名前を明らかにしているわけではないから、
そこまで言われることもないと思っています。

ただ、私は亡くなられたあとも尊愛し続けている村形明子氏については実名で書いています。

それは家族もいず、孤独のまま亡くなった彼女のことを世の中の人に知ってもらいたいがためです。

私が書かなければ、誰も彼女のことを話題にしてくれることもないと思うから書いています。

私自身、彼女のことを忘れたくないですし・・・。

まあ、そういうことで、独断と偏見に満ちたブログではありますが、
blogを書くことで、自らの癒しになり、
同時に読まれた方に何等かの参考、または癒しになれば、これ以上のブロガー冥利はありません。

難聴者の私は、こういうAI時代に生まれた幸運を思い、
blogという自己発信できる利器ができたことの利便を最大に享受させてもらっています。

*

★現実の不幸を書きて現実の不幸を癒すblogとふ利器

★書くことの効能無限わたくしに精神安定もたらすことも

★わたくしに書かれし人の批判とか反発とかも含めてblog

★匿名で書かれし記事に匿名で批判しにくる人も暇人

★暇人のわれの吐露する記事を読みしつこく批判しくる暇人

テンプレート

2019-10-03 09:54:51 | ブログ記事

blog友達に

テンプレートをフラットにしたらスマホと同じように

読者の方からの

「いいね」「応援」「続き希望」「役に立った」などの投票がしていただける

と教えてもらったから、そうしていましたが、

フラットのテンプレートには、そういう長所がありながらも、

数日分の記事の流し読みができないという欠点もありました。

それで教えてもらってからは、

いったんフラットにしていましたが、やはり流し読みができないと元に戻し、

またフラットにしていましたが、今また元のテンプレートに戻しました。

読者の方は戸惑われるかもしれませんが、

これは私自身が迷っていることの結果です。

できれば、フラットでなくても、

前のまま流し読みもでき、かつ投票もできるという形にしていただけると有難いのですが、

Gooblogさん、考えていただけませんでしょうか?

*

ついでに、数日前からコメントを承認制にしていましたが、

元に戻しましたから、従前どおり、いただいたコメントはすぐに表示されます。

また悪意のコメントが付くようなら、また承認制に戻します。

コメントが実質匿名であることを利用して、

人を嫌がらせることを目的にしたコメントは今後ともご遠慮くださいますよう。

と書きましたが、事情により、また承認制に戻しました。

たびたびの変更、申し訳ありません。

コメントくださる方は

人の書いた記事の揚げ足をとることばかりしないで

前向きの考えを述べるものにしてくださいますよう、お願い申し上げます。


五月の蠅と書いてうるさいと読ませます

2019-10-02 12:44:02 | ブログ記事

わざわざ私の書いた記事に対して五月蠅いコメントを入れてこられる方がいます。

前も書きましたが、私の書くことがお気に召さないのでしたら

読みに来られないでください。

それが、あなたのためでもあり、私のためでもあります。

あなたがいちゃもんを付けてこられる記事はいったん保留いたしました。

また折を見て元に戻すようにします。

このblogは私の日記ですので、あなたのコメントは今後ともアップいたしません。

ですから、今後は、

どうぞ、あなたのお考えに合ったblogを訪問されてお読みになられますように。


暑かった~

2019-10-01 16:10:56 | ブログ記事

今日は心臓の定期検診日であった。

予約時間は午後だが、

昼食は食べないできてくださいと言われているから、

午前中に生協の配送を受け取ったら出発。

病院は我が家から徒歩15分くらいのところにあるが、

病院の向こうにできた新しいショッピングセンターを見ていこうと思った。

が、これが暑くて、ショッピングセンターに到着したときは大汗をかいていた。

汗をひっこめるため、

新しくできたホームセンターでジュースを飲んで休ませてもらってから

阪急オアシスという食料品ばかりのスーパーを見て回った。

ついでに一角にあったユニクロもざっと見せてもらった。

そうして、やおら病院に向かったのだが、

途中できたばかりの公園を通ったのが、これがまた暑かった。

できたばかりなので、木々も幼木ばかりで陽射しを遮るものがなかったから、

病院に到着したときは、暑さで息も絶え絶えになっていた。

私は、いつも受診の前に採血をしてもらうのだが、

今日の看護師さんは年配の人であったにも関わらず下手で、

右腕に注射針を刺してもなかなか採血できなくて、

焦った看護師さんが注射針をぐりぐり動かしまわるものだから非常に痛かった~。(泣)

でも、あまり痛がると下手な看護師さんが可哀想なので、

「大丈夫ですよ」と言ってあげた。

結局、その看護師さんは採血に失敗して、

別の看護師さんに交替した。

次に採血してくれた看護師さんも、それほど上手な人でもなかったが、

今度は左腕のほうに注射針を刺して、なんとか採血に成功した。

上手な看護師さんに当たったら痛みもあまりなく終わるのだが、たまには、こういうこともある。

血液検査の結果が出てから診察を受けたのだが、

主治医の先生は、

「ワーファリンが効きすぎているから、確かめるため来週また来てください」と。

ワーファリンというのは、血液がさらさら流れるようにするお薬である。

私のように心臓に人工弁を入れている者は

血がどろどろすると弁に血の塊がついて脳梗塞とか心筋梗塞とかを起こすから、

常に血液をさらさらさせておかないといけないのだ。

が、それが過ぎると、また弊害があって、

たとえば、私が大腸癌の手術後、退院してから数日間血尿が出て、

もう少しで死ぬくらい体内の血液が減り気を失って再入院したことも過去にはあった。

私は、最近、身体がしんどくて元気が出なかったが、

ひょっとしたら、このワーファリンの効きすぎで貧血を起こしていたのかもしれない。

とにかく今日は暑くてしんどかったから、病院でも長いすに横になっていたかった。

帰りはタクシーを呼ぼうかと思ったが、

もったいないのと、夕飯のおかずも買わないといけなかったから、また歩いた。

それにしても、私も、いつまでこうして自分で病院に通うことができるだろうか。

今日のようにしんどかったら、もう老人ホームに入ってしまいたい。

夫も、

週に何度かテニスに行くのだったら、

月に一度の私の病院通いは往きだけでも車で送ってくれたらと思うが、

夫自身は健康な人だから、私のしんどさは、たぶんわからないだろう。

ご近所の娘さんは拒食症の後遺症で極端に痩せているから助けてあげたい気持ちが湧くようだが・・・。

瘠せていても、私から見たら、若い分、私より元気そうにも見えるのだけれども・・・。


私の母は霊感の発達した人であった

2019-10-01 06:02:15 | ブログ記事

昨日の記事の続きになるが、

私の母は霊感の発達した人であった。

昨日の記事で書いた、飛行機の中で甥の呼吸が止まったとき、

母には母の両親とか亡くなった人がいっぱい見えたそう。

それでその人達に必死で「孫を連れていかないで」と頼んだら孫(私の甥)は息を吹き返したそう。

これに限らず、母は不可能を可能にするような力が備わっていた。

だからか、どんなことも諦めるということをしない人だった。

私の父が給料を家に入れないで全部自分の小遣いにしてしまうようなことをする人だったから、

母は、自分は生け花で生きていこうと決めた。

それからは生け花の猛勉強をしたのはもちろんだが、

実際に日本生け花三大流派の幹部にまでなって活躍した。

私の実家をビルに建て替えたのも母であった。

それまでは木造の平屋であった。

それを近所の卸問屋の店に貸していた。

が、実家は高知市の中心地にあったから、

母はビルにして自宅兼貸店舗&事務所にすることを思いついたのだった。

建築資金は銀行で借りて、自宅兼貸事務所、貸店舗のビルを建てた。

日本の景気が上向きのときだったから、建てたビルにはよい借り手が見つかり、

銀行で借りたお金は7年で払い終えることができた。

その後、兄が勤めていた会社をやめて自営業に転じてからは、

三階の母の住まいが兄の住まいになり、

母は二階の事務所を自分の住まいと生け花の稽古場にした。

そして一階が兄の店になったが、

銀行の借入金の支払いが終わっていたから、兄にはただで使わせることができた。

その後、実家の隣の店が売りに出されたとき、

兄夫婦は買収して大きなビルに建て替えて貸しビルにする計画を立てた。

が、母は反対した。

理由は、

景気が減速しているから今後はビルの貸事務所、貸店舗は借り手がいなくなると。

世の中は母の言う通りになった。

実際、母の親戚で、かなり大きな商売をしていた家が、

その家のお嫁さんの発案で大きなビルに建て替えたが、

時代の流れで貸事務所、貸店舗は思うような借り手がつかず、

銀行への支払いが滞って、

最後には自宅兼貸店舗貸事務所のビルを手放さなければならなくなった。

こういうふうに、母には先見の明があった。

たぶん世の中の未来が見えていたのだと思う。

母は重い脳梗塞から復活を遂げたし、

死ぬ数年前には

二階の踊り場で足を滑らせて一階まで真っ逆さまに落ちて首の骨を折ったが奇跡的に助かった。

神様からの加護もあったのだろう。

母は決して幸せばかりの人生ではなかったが、

しかし力強く生きていられたのは、

神様からの加護や、こうした霊感によるものであったかもしれない。