神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神田和泉町町会

2009-05-10 17:44:00 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈には、伊勢国津藩(現在の三重県津市)藤堂家の上屋敷、出羽国鶴岡藩(現在の山形県鶴岡市)酒井家の中屋敷などがありました。
町名の「和泉町」とは藤堂家が代々、和泉守を名乗ったことに因んでいます。

大正12年(1923)の関東大震災で町は、町民の防火活動によって火災を免れました。
このことは、世の奇跡として市民の賞賛を受けました。
そのため、この神田和泉町を含む一帯は、昭和14年1月に、東京府より「関東大震災協力防火の地」として顕彰され記念碑が建てられました。

町会の該当区域は、和泉町全域となっています。


当町会の神輿は秋葉原地区では一番の大きさを誇ります。
その大きさたるや、2尺5寸、重さは500キロにも達します!
当町会を愛して止まない担ぎ手350~400人で宮入を行います。
必見ポイントは社殿前です。
前に進もうとする担ぎ手衆と、それを押さえようとする、町会青年部との間の攻め技合いです。
是非ご堪能ください。



佐久間町三丁目町会

2009-05-10 17:24:57 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。
「佐久間町」の名前の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来します。

由来版が立っている佐久間公園は、ラジオ体操の発祥の地としても知られています。
「国民保険体操のラジオ放送(のちのラジオ体操)」が開始されて間もなく、昭和5年に万世橋警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけてこの公園で早起きラジオ体操を始めました。
これを記念して同公園には由来を記した石碑が建立されました。

大正12年の関東大震災時、神田川南岸まで火の手が来ていましたが、町内の人々が力を合わせてバケツリレーをし延焼を免れました。
その功績を称え「町内協力防災守護之地」として史跡に指定されました。

町会の該当区域は、佐久間三丁目、佐久間河岸59~78号地となっています。


当町会の神輿は、昭和32年に後藤 直光の手により生み落とされました。
宮入り前、鳥居前において今年も元気いっぱいの踊りを行いました。



神田佐久二平河町会

2009-05-10 17:24:08 | 平成21年 神田祭
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この界隈は、江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町でした。
「佐久」という名前は、佐久間 平八という材木商が住んでいたことから生まれました。
江戸時代初期の慶長年間(1596~1615)に、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町でした。
古くから幕府に仕えた町ということで、将軍家に祝い事があるときは、町人たちにも能の見学が許されていたといいます。

江戸時代から続いた神田佐久間町二丁目は、たび重なる火災で町が南北に分断されていましたが、明治2年(1869)にその間の武家地を編入し、明治44年(1911)、神田を取って佐久間町二丁目と改称しました。
しかし昭和22年には、その名を神田佐久間町二丁目に再び戻しました。

一方、神田平河町も、防災と深い関わりを持った町です。
享保12年(1727)、防火のため、麹町平河町一丁目が火除地に設けられました。
そこに住んでいた人々のための代地が神田佐久間町の隣に置かれ、麹町平河町一丁目代地と呼ばれました。
その後、明治2年に神田平河町、明治44年には平河町と名を変え、昭和22年、ふたたび神田平河町と改名しました。
昭和28年に、佐久間二丁目と神田平河町が合併、名称を佐久二平河町会として発足し、現在は神田佐久二平河町会となりました。

町会の該当区域は、佐久間二丁目、神田平河町、佐久間河岸45~55番地となっています。


当町会の神輿は昭和27年に名工、後藤 直光により製作され、一本彫りの繊細な彫刻が特徴であり、一昨年修復されました。
是非ご注目ください。



東神田三丁目町会

2009-05-10 16:58:22 | 平成21年 神田祭
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南に神田川をのぞむ東神田三丁目は、かつて神田八名川町、神田元久右衛門町、神田餌鳥町、神田向柳原町一丁目に分かれていました。

江戸時代からのこれらの町の名前は、明治5年に正式な町名となり、向柳原町は、浅草区へ編入し、後に一部が神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となりました。

昭和42年、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。
この時に、案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。

こうして東神田三丁目という名前に変わったと言われています。

町会の該当区域は、東神田三丁目全域となっています。


光り輝く神輿に御注目下さい。
当町会の神輿は神輿師の製作ではなく、宮大工により造られました。
総勢300名での宮入となります。



神田須田町二丁目町会

2009-05-10 16:48:45 | 平成21年 神田祭
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現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。
大正12年(1923)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、柳原河岸、小柳町、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。

昭和20年2月22日と3月10日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができたと言われています。

昔から祭り好きの人たちがとても多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森神社・下谷神社の氏子が集まり住んでいます。

今でもこの須田町に住む人々は、お祭り以外にも、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続けていく町会です。

町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。


当町会の神輿は、昭和13年、神田の宮惣で作られました。
大きさは2尺3寸になります。
黒漆屋根に3つの屋根紋が入り、胴が絞られた美しく、バランスの良い神輿です。
約500名の担ぎ手で宮入を行います。