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神田中央連合 神田猿楽町町会

2013-05-12 13:49:13 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

神田中央連合 神田猿楽町町会の宮入です。

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猿楽町は古来、芸術文化に関係の深い町です。

今でいう「能楽」は、江戸時代には「猿楽」として、武士達に親しまれていました。
「猿楽」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊に指定されました。

猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世座家元、観世太夫や、一座の人々の屋敷が現在の神田神保町一~二丁目から西神田一~二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という町名が生まれたと言われています。

他にも、文学では、夏目 漱石が青春時代にこの地の近くに住み、町内の錦華小学校(現お茶の水小学校)に在籍していました。
芥川 龍之介も恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたといわれています。

音楽においては、現在の東京音楽大学のもとである、東洋音楽学校が明治40年、猿楽町に設立され、日本の音楽文化近代化に多大な影響をもたらしました。
また、猿楽町は経済同友会代表幹事、北城 恪太郎氏、脚本家、大石 静さんが生まれ育った町でもあります。

猿楽町と駿河台の間に、男坂・女坂と呼ばれる2つの階段があります。
いずれも大正13年(1924)につくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。
どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りになっています。
そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼ばれるようになったとのことです。

町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目全域となっています。 

【神輿の特徴】

当町会の神輿は、名工といわれた後藤直光氏によって、昭和8年に作られた由緒あるものです。
台輪寸法2尺の繊細で豪華な彫刻は、今では見受けることのできない見事なものとなっています。

この神輿は町会員や他の地域から馳せ参じる家族・親族、神輿好き、神輿同好会メンバー等、約300名によって担がれます。


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