続きまして、神田駅東地区連合の宮入りが始まります。トップバッターは北乗物町町会です。
北乗物町は、明治2年(1869年)に、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)、兵庫屋敷代地(ひょうごやしきだいち)、神田紺屋町二丁目横町代地(かんだこんやちょうにちょうめよこちょうだいち)が合併して成立しました。この時に、「北乗物町」と名付けられました。北乗物町は鍛冶町一丁目(かじちょういっちょうめ)の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。
この辺りは、江戸時代の初期に開けた地で、当時の市街地造成の方針によって、職業別に職人が集まり町となっていきました。この土地も、当時の駕篭などの乗物を作る職人が集まって居住したために生まれた地名である、と言われています。
元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して付けられました。「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。
町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。