鍛冶町は、慶長8年(1603)の市街地造成の際につくられた町屋です。
因みに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井 伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来すると言われています。
多くの鍛冶師 、鋳物師 、釜師などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。
ここ、二丁目界隈は金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴です。
昭和8年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年、麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。
近代科学の大先覚者、平賀源内が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であると言われています。
この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田 宗伯処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。
当町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。
大きさは、台輪寸法2尺6寸です。総 欅作りの傑作の神輿です。
現在は、神田神社神輿庫一番庫に収納されています。
私どもの町の山車人形を造った仲秀英の三代目は白壁町に住んでいたことがあります。江戸から明治の山車がたくさん出たころは鍛治二のあたりは鍛冶町小鍛治松田町頼義や白壁町恵比寿、鍋町神功皇后の山車が引き出された町が昔あったと思っています。
人と人との繋がりを改めて感じることができるのも
祭りの魅力の一つですね。これだけの晴天で神幸祭、
宮入の日を迎えられて嬉しい限りです。
各地に作品がある有名人形師・仲秀英も住んでいた
鍛冶町二丁目。歴史を感じますね。