町名の由来は一丁目と同じで、多くの鍛冶師【かじし】 、鋳物師【いもじし】 、釜師【かまし】などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。鍛冶町【かじちょう】の名前の始まりは江戸時代になります。この近辺に幕府御用【ごよう】を勤める鍛冶方棟梁【かじかたとうりょう】であった高井伊織【たかいいおり】が屋敷を拝領【はいりょう】し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。
この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀【なぎなた】といった打物【うちもの】を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。
昭和8年の区画整理で、黒門町【くろもんちょう】 、上白壁町【かみしらかべちょう】 、下白壁町【しもしらかべちょう】 、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。
近代科学の大先覚者【だいせんかくしゃ】、平賀源内【ひらが げんない】が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であるといわれています。
この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田 宗伯【あさだ しょうはく】処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。
当町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。大きさは、台輪【だいわ】寸法2尺6寸です。総 欅【そうけやき】作りの傑作の神輿です。現在は、神田神社神輿庫【みこしこ】一番庫【いちばんこ】に収納されています。