今、この 1/9のコンサートの案内を一生懸命している所です。
なかなか、この思いを伝える手段がありませんので、挨拶文を載せます。
涼風の候 みなさま いかがおすごしでしょうか。
私は、この度、長年弾いて参りました ラプソティ イン ブルーを、オーケストラと共演することとなりました。この曲との出会いは、大学生の時で、友人の勧めで、私に合ってるのでは、と、練習したのがきっかけです。学生の時に、のだめオーケストラのような、大学選抜のオケを友人と結成し、初演も含む オールガーシュインプログラムで、演奏会をしたのが、1986年のことでした。その時の演奏をCD化しようと、今やっているところです。最近、たまたま、インターネットで きれなブルーのドレスに心を奪われ、またいつか、ラプソディ弾くときにでも、着ればいいやと、思って、買ったばかりの頃に、このお話を頂きました。神の導きか!ちょっとおおげさ。でも、なんという、巡り合わせでしょうか。私が学生の頃は、まだ、ガーシュインは、クラシック界ではあまり認められてなく、この曲でオーディションに落ちたこともあります。卒業演奏会で、ガーシュインのコンチェルトのソロ版を弾きましたが、よく、これを認めて下さったと、唐崎由起子先生に今更ながら感謝します。そして、新人演奏会、ソニーのオーディションなど、あらゆる場で、ラプソデイ...を弾いてきました。中でも、自分でオケのデータをコンピュータでを作成して演奏した、ローランド株式会社のデジタルピアノのツアーでは、黛敏郎先生にも認めていただき、震える思いでした。また、母校のOBオーケストラでも、この曲を演奏しました。これが、13年前になります。
この度は、読売日本交響楽団のトップメンバーの方々、クラリネットの方も来て下さるそうで、とても楽しみにしています。ホールもすばらしく、ピアノもスタインウェイです。どんな音になるのか、本当に楽しみです。どうぞ、聴きにいらしてくださいね。
奥野かおり
ラプソディ イン ブルー
1924年1月3日の夜、「ニューヨーク トリビューン」紙の娯楽欄にある記事が載った。それは、2月12日にエオリアン ホールで開かれるポール ホワイトマン オーケストラのコンサートの予告でテーマは「アメリカ音楽とは何か」。中略....ジョージ ガーシュインがジャズ協奏曲を作曲中、だという。ガーシユインは、最初は交響曲の「ブルース」を書くつもりだった。しかしそれではあまりにも制約が多すぎるので、ジャズからヒントを得た方がよさそうだと思い始めた。後に、彼はこう言っている。「ジャスの限界をあれこれいうくだらない意見が多すぎた。その機能に関する明白な誤解はもとより、ジャズは厳格な拍子をもっていなければならないなどと言う人もいる。ダンスのリズムを守らなければならないとか。ぼくはできることならその思い違いをガツンと一発でたたきのめしてやろうと決心した。」 1月25日にはジョージは「ラプソディ」を完成させ、2月4日にはグローフェは編曲を終えていた。だが、ジョージ自身のピアノパートは当日、本番中にやっと完成した。聴衆の中には、クラシックコンサートのようにイヴニング ドレスの人もいれば、普段着の人もいた。音楽界できていた著名人は、セルゲイ・ラフマニノフ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、フリッツ・クライスラー、ジョン・フィリップ・スーザ、。プログラムは10年前のジャズ、「貸し馬車ブルース」から始まり、「正統的作譜とジャズ」「借りたテーマに味付け」「スタンダードをダンスリズムに改作」など興味深い題が並んでいが、たくさんの曲が管弦楽で続いたため、プログラム最後のほうのジョージの曲にきたときは、退屈が広がり始めていた。
「ラプソデイ イン ブルー 」がそれを一変させる。クラリネットのブルージーな旋律が鳴り響 いたとたん、聴衆はひきつけられ、魅惑する音楽にそのまま終わりまで連れて行かれてしまった。 ホワイトマンは感極まっていた。「スコアの真ん中あたりから 私は泣いてしまった。」と、後で、 認めている。「我に返ったときには、11ページ進んでいた。そこまで、どうやって指揮したのか、 今でもまだ、わからない。」彼は、「ジャズをレディ」にすることに成功し、上流の中でも勇気ある 人たちが「ジャズ」と名のつくものを聴くのに大してやましさを感じないですむような状況を作りだし、ほんものを聴く機会を増やすのに大いに役立った。
「ラプソディ」はジャズではない。というのも、1924年当時、ジャズとはダンス音楽を表していたのだ。今日私たちが使うところの「ジャズ」は、まだ開花していなかった。ルイ・アームストロングのホット・ファイブの歴史的録音は、まだ一年後のことである。クラシック音楽の観点からすれば、この曲には欠点もある。シンフォニーを聴き慣れた人にとっては、ハーモニーが少しも新しくない。また全体的な構成は弱い。しかし、リズムに大きなオリジナリティがあり、曲のドラマチックな展開、憶えやすく美しいメロディの連続など、長年支持され続けてきた、ガーシュインならではの個性がある。
この曲は1924年だけで84回演奏された。 (参考資料:ガーシュイン /イーアン ウッド 別宮貞徳 )