昨夜ハロウィーンだが家で仮装して記念写真を撮り、ひとりぼっちでも楽しみ、〆に体操の大会を観て人間離れの技に驚嘆した。
ぐっすり眠れそうなのに目が冴えて、結局朝方に眠りに落ちた。時々起きながら今まで休んでいたが、相変わらずの騒音の中、何かを思考させられ、目が覚めたところだ。
「皆が憎い」…走馬燈の様に過ぎ去る、人をバカにした連中との関り合いで、とても自然な気持ちの様に沸き上がる感情と言葉が共に走った。
文学的に描写するとまた連中は「自分の言葉」としてコピーするのだろうが、くだらないのでそのままに。
日本語を使いこなせる華人は、連中にはありえない離れ技を持つ人種なのかもしれない。
離れ技を持つ私とは違い、大陸から伝わった漢字を使いこなせるようになった先人の努力を忘れ、まるで人の力を信じていない猿連中が多い。かといって、高い木に登る力も失っている日本動物園の猿山で腰と暴力を振るうだけのえげつなさに、誰もそれを見学したいとは思わず。
「憎い」「恨めしい」を口にする権利を持つ私だが、暫くすると、それらの悪感情は消える。あらゆる「愛しさ」もそうだ。超ドライらしき私は、他人よりも優れているのか劣っているのかわからないが、感情の某る種の阻害はあるようだ。
憎いと浮かんだ時に、曾ての心と分解し、恨めしいと浮かんだ時は心の山(壁)と分解でき、何だか自分の感情処理の良い点が判明し、少しは悪感情に浸るのも悪くないと笑顔に戻る。過去に拘らず、心に制限を掛けずにいられたから、達観してこられたのかもしれない。
心に制限を掛ける人々からすると、あり得ない!技なのだろう。他人にも制限掛けてがんじがらめにする連中は、自分の心にも制限掛けているのだ。それをどうこうしようと説教めいた小説を書いてはいるが、私の意図を酌まずに、ただ小説文の形をコピーしたりマネしたりして喜んで文人ぶる。
猿や馬に説法・念仏とはこの事だ。
自由な心を持たないなら文人に為る資格はない。自由な心とは、淫乱になれというわけではない。むしろ、欲望や事象にストイックな心だ。
バカや阿呆には無理かもしれないな。
拘りがあまり無いのを、何も考えていない人の様に類別するのも、人をバカにした見方だ。
拘りは其れに対する執着で、そこから離れることを制限しているという事だ。他人を縛りながら自分の心も縛り、何が愉しいのか私には理解し難いが、私の苦しみを喜ぶ連中を許すほど気高くはない。
一人で浮いている方がましだ。
望玄日月緋語霜久泉千波らんらん意流花明彌月路世汰炬呂拿蘇東郷嘉奈☆baobabbabyMiharuT-.-TogoKana秦語夏てぃふぃん日中堪能者 筆。