(産経新聞10/14大阪6版)
〈お心を傷つけた方々には、心底お詫(わ)びします〉
瀬戸内寂聴さん、
(仕方なく)上記のように「謝罪」したんだそうです。
ホントかしら? と思って朝日新聞の「エッセー」読んでみましたが、
あれれ、というか、やっぱり、というか、謝ってるようには読めませんね。
*以下、朝日新聞デジタル:(寂聴 残された日々:17)バカは私 恨みを繰り返さぬために より
→http://digital.asahi.com/articles/DA3S12606586.html?rm=150
私の気持ちは、殺したがっているのは、今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった。常日頃、書いたり、口にしたりしている私の死刑制度反対の考えから、当然、今も世界の趨勢(すうせい)に遅れ、死刑制度をつづけている我が国の政府に対して、人権擁護の立場から発した意見であった。
だからね、
「国家」とか「現政府」とか「我が国の政府」とか言えば、
そこには、国民としての私(河合)、有権者としての私(河合)も含まれるわけですよ。
バカという言葉は94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと、深く反省しているものの、発言の流れからしても「バカども」は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。
はあ・・・「当然」なんですか・・・
寂聴さん、
「バカども」が被害者のことではないと、
そういうふうに聞けない人の方がおかしいと言いたいのでしょうか?
少なくとも私には無理なんですが、それこそバカだから?
寂聴さんの頭ン中では、
「当然」国家や政府が国民と切り離され対立しているものだと理解されているんでしょうけど、
被害者にしたって国家の一員であり、有権者なんですけどね。
でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである。
弁護士さんとか、僧形の作家とか、
字面には敏感でも、そこに込められた想いには鈍感という人が、
世の中にはゴマンといて、
そういう人達は、
同じ言葉でも違う受け止め方をする人がいるかもしれないという謙虚さがないのですね。
挙句、
文句があるなら、私のことをもっとよく調べてからにしてちょうだい、そしたら分かるでしょ、
とか言い出すんです。
そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。
だったら死ねば? とは言いません。
「当然」そういう意味ではないのでしょうから。
でもせめて、
山中深く隠遁して、黙っててくださいませんか。
もう論じなくて良いですから、静かに祈ってて!
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