ナンダカンダ月日は流れアッシも気が付いたら、詰襟の学生服を着ていたんでございます。
中学一年の秋、クラスから生徒会副会長に立候補した者がいて先生から「お前、応援弁士をやってくれ」と云われ、何の躊躇も抱かずその大役をすんなり引き受けてしまったんで。どうにか立候補者の人格のお陰で一年生ながら生徒会の副会長に当選してくれたのでホッとしたのを覚えていますんで。
それ以来クラス対抗弁論大会やらに抜擢されまいった次第でございます、へぇ。そうそう、そのクラス対抗弁論大会じゃ弁論タイトルがなんと、「我れは思う!交通道徳に一言」だったんですから笑ってしまいますよなぁ。中学生の問題としては的がはずれていましたから。でも、考えてみればその頃から交通事故が大きな社会問題だったんですなぁ。見事、落選しましたがね、クラスの級友に申し訳なかったでござんすねぇ。
アッシが中学三年の頃、「黒い花びら」「有楽町で逢いましょう」の流行歌が一世を風靡した頃でござんした。アッシも丁度、変声期の時期にあたり級友から「低音の魅力」と、もてはやされたんでさぁ。我ながら渋い低音の声でございましたなぁ。
良く口ずさんでいたのが、石原裕次郎、フランク永井の唄でしたねぇ。特に裕次郎の唄はその後も良くうたったもんで。その頃でしたかねぇ、アッシの初恋てぇものをしたのは。ええっ、無論淡い淡い「片思い」で終わりましたがね。
小学校六年の時からの片思いで、我ながらよく四年間も一途に想いを抱きつづけていたもんだと一面呆れる感じも無きにしも有らずで(笑)。
卒業式のあとで、卒業証書を片手にクラス全員で、アッシ達が最後の教え子となっちまって定年退職された担任の古田達蔵先生の自宅に押し掛けたのがついこないだのように想えまさぁ。この恩師も今や亡くなっちまいましたがねぇ。


そうそうこんな思い出もございますなぁ。
アッシが生意気盛りの中学一年生の頃のことで。東京から何年振りかで愛子姉が旭川へ来た時のことでさぁ。
何かだったかは忘れちまいましたが、愛子姉がアッシに何か聞いたんで。それは大したことではない質問であったんでございます。それでアッシが、なんでぇそんな事も知らねぇのかという酷い態度をしてしまったんでございますなぁ。
なにしろ、生意気盛りの頃のことでして今、思い出しても赤面するくらいでございます。そんなアッシを見て愛子姉は「物事を知らないということは恥ではない。それを馬鹿にするような人間こそ恥を知らない人間だ」と。
子供心にこの言葉にゃ応えましたなぁ。今でもそのときの光景をはっきり覚えているんでさぁ。 この教訓はその後のアッシに大きな教訓を与えてくださいましたなぁ。 後年、若い人に良くこの話しをするアッシでございました。
「知らない事は決して恥ずかしいことではない。それよりも知らない事を聞くということこそ大切な事だ」とね、へぇ。


そうそうアッシは、地元の高校を受験せずに千葉県の南柏にある全国から集まっていた全寮制の高校へ受験したんでございます。
何故、級友たちが行った地元の高校へ行こうとしなかったてぇと申しますと、家から離れたかったからなんで。ただそれだけの事だったんでぇ。
受験が二月に札幌のとある家でおこなわれたんでございます。そうですなぁ、受験生は三十人くらい居たでしょうかねぇ。全道から集まっていましたなぁ。
その中で、室蘭から受験に来ていたとても可愛い女の子が居たのを覚えていますわい。四月に受験校で逢えるかもと楽しみにしていたアッシでしたが、残念ながら再会は出来なかったんで。合格しなかったんでやんすよ。今でいう「中山美穂」に似ていた子でしたなぁ。
そうそう、この受験で思い出すことが有るんでぇ。国語の試験で、問題に「はかせ」を漢字にするのが有ったんでございます。
その問題で「博士」の「博」に点が有ったかどうかで、点を書いては矢張り無かったような気がして消しては書き、書いては消しの繰り返したのを良く覚えているんでぇ(笑)。
そんなこんなで、旭川への帰路の列車の中では完全に滑ったと想って、冴えない顔で帰宅したアッシでございました。
合格発表の日、てっきり「桜散る」の電文が届くとばかり想っていたアッシだったんでございますが、なんと「合格おめでとう」の文字であった時は正直嬉しかったですなぁ。
三月始めにそれがわかって担任にその旨を報告すると「お前が我が校で、一番早い合格者だ」と云われたのを覚えていますぜよ。級友が一生懸命に最後の追い込みを掛けているときアッシは一人我が世の春といった気分だったんでぇ、へぇ。


そんな上気分でいた或る日の夕方、伊達紋別に引き取られていた守兄が、三年ほど前に旭川の清子姉に引き取られ、姉家族と一緒に生活していたのでございますが、その守兄がひょっこりアッシを尋ねて来てくだすったんでぇ。
それまでは一度もわざわざ尋ねて来てくれることなどなかった兄だっただけにとても嬉しかったのを覚えているんで。お店の隣にあった小さな喫茶店で一時間ほど話をしていきましたかなぁ、
その話の中に「かあさんに逢いたいか?」って聞かれた一言を忘れることが出来ねぇアッシでございます。そして、マンちゃんは「じゃな~」と云って去っていったんで。
まさか、それが今生の別れになろうとは夢にも想わなかったアッシでございました。その後、守兄は京都の文雄兄、東京の敏信兄、愛子姉と逢って行ったと後日聞かされやした。
それじゃあの時は密かに別れの気持ちでアッシに逢いにきてくれたんだということが後日わかったアッシでございました。


守兄が、室蘭で服毒自殺を図ったという話を聞いた時、アッシは一瞬「このまま死んだ方が兄貴の為に良い」と心の中で想ったんでやんすよ。
このまま助かったら、兄貴はなお辛いんじゃねぇかと想っちまったんでぇ。なんとも冷てぇ弟だったと想うんでございますよ。でもあの時は正直そういう気持ちでございましたなぁ。
守兄を自殺まで追い詰めた原因はてぇと、親父なんでございます。兄が亡くなった時はアッシもまだ子供で、誰もその訳を教えてくれなかったんでございます。
高校二年の折り、当時芦屋で暮らしていた文雄兄の下宿に一泊した時、文雄兄の誰かに書きかけた手紙をなにげなく見付け、その内容で初めて守兄を自殺に追い込んだ訳を知ったアッシだったんでございます。
それまで何も感じなかった親父を初めてうらんだのもその時でございましたな。
ナンダカンダ有りやしたアッシの幼児期、小学校、中学校時代でございましたが、一番悲しかったのはこの「守兄」の亡くなったことでございましたなぁ。。
つづく