唯物論者

唯物論の再構築

進化論2

2011-01-19 07:23:28 | 進化論

 ここでは、既に記載した進化論についての記事(遺伝子と進化)を前提にして、目的論的進化論を一部復権させる。目的論的進化論とは、なんらかの目的意識が生物進化をもたらす、という観念論的進化論である。宗教世界は、その目的意識をもっぱら神に扱っている。しかしここでは、そのような神がかりの理屈を検討せず、生物種自身による目的意識的進化だけを取り上げる。

 基本的に進化論は、環境要因と突然変異の二点で進化を説明する。例えばキリンの首が長いのは、食料の葉っぱが高いところにあるために、首の長い仲間だけが生き残った結果だと、進化論はみなす。これに対し目的論的進化論は、キリンが自ら首を長くしようと目的意識をもっており、結果的に首の長い仲間だけが生き残ったとみなす。つまり進化論の基本では環境が進化を規定するのに対し、目的論的進化論では生物種自身の意識が進化を規定する。言い換えれば、進化論の基本は唯物論だが、目的論的進化論は観念論になっている。
 進化論が基本的に目的論的進化論を排除するのは、当然である。なんらかの目的意識が進化をもたらす場合、なぜそれは最初から進化の最終状態を実現させないのか、なぜせっかく生み出た生物種や生物属が絶滅したのか、の謎に精神分析を加えながら、いちいち答えなければいけないためである。しかも進化の偶然性は、目的意識の不完全性を示しており、そもそもの進化の必要性の説明を余計に困難にする。そしてそのことは、進化論での目的論的進化論の検討自体までをも邪道にした。目的論的進化論を検討した時点で、その人物は進化論のイロハを知らない未熟者になるのである。
 しかし生物種自身は、進化が進んで高等化すればするほどに意識をもち、その意識が生物種自らを規定するようになる。この点を無視して進化論を組み立てるのは、生物を無機物と同一視するだけの、粗雑なやり方である。それで出来上がるのは、事実からかけ離れた虚構の理屈であり、それこそ観念論になってしまう。

 既に記載した記事にも述べたが、後天的獲得形質は遺伝しない。つまり生物種は、後天的獲得形質を遺伝子に搭載して、次世代にその後天的獲得形質を渡すことができない。それは目的論的進化論を不可能に扱う理由になっている。生物種の特定資質を選考するような意識は、後天的獲得形質に含まれるためである。しかし同様にそれは、環境決定論的進化論をも不可能にみなすことになる。意識のかわりに、環境が生物種の特定資質を選考しても、同様に次世代にその後天的獲得形質を渡すことができないためである。つまり人為的交配による生物進化の実現も、不可能と宣言されたのである。この限りで、後天的獲得形質が遺伝しないことを理由にしたルイセンコ学説の否定は、目的論的進化論の否定だけに留まらず、進化論全般を否定するものになっている。
 しかし後天的獲得形質は、生物種内の生物属的文化として、次世代にその後天的獲得形質を渡すルートをもつ。この点については、既に記載した進化論についての記事で述べているので、割愛する。いずれにせよルイセンコ学説の否定は、目的論的進化論の否定と無関係の事柄である。

 目的論的進化論の可否は、キリンが自ら首を長くしようとするような目的意識をもつかどうかにある。キリンがそのような目的意識をもつ場合、そしてその結果として首の長い仲間だけが生き残るのであれば、目的論的進化論は成立する。このようなことは、キリンでなくても、雌が強健な雄を選考する局面では一般的な現象である。雌はもっぱら、体型の巨大さや毛並みの立派さなどに強健さを見て、雄を選考する。それは、生物個体が行う交配相手の意識的選考である。雌が意識的に遺伝子を選考するほど、子孫の雄の体型の巨大さや毛並みの立派さをさらに助長する。そのような雄の強健さのシンボルが、ライオンのたてがみであり、鹿の角であり、一角の牙であり、ひとの経済性である。ダーウィンは、孔雀の羽の進化論的説明に困ったそうである。しかし孔雀の羽も、雄の強健さのシンボルにすぎない。
 ただしその強健さの見た目と実態の一致は、別の話である。その両者の関係は、限界効用価値と再生産用労働力価値の関係に類似している。見た目と実態の乖離が大きい場合、見た目が強健なら、その実態は貧弱になる。実態の貧弱は、その貧弱な雄をもちろんとして、そのような雄を選考する雌を、適者生存の原則により生物界から駆逐する。このことは生物個体に交配相手の意識的選考基準の変更を要請する。つまり目的論的進化論が成立しても、それは環境決定論のガイドラインの枠内に留まったものになる。当然ながら、適者生存に抵触しない範囲なら、孔雀の羽のような実態の伴わない強健さのシンボルも生き残る。その限りで、高いところの葉っぱに困った古代のキリンの雌は、交配相手を選考するという形で、首を長くする意志をもっていたと考えるべきである。

 環境決定論と目的論の区別の困難は、ともに「~のために」「~だから」という助詞の扱いに起因している。それらの助詞は、原因を表現するとともに、目的も表現するためである。目的は裏返しの原因にすぎない、という言い習わしは、目的論と環境決定論の関係を示している。その限りで、両者の間に実はそれほどの大差は無い。集約すべき要点は、唯物論であるか、観念論であるか、である。したがって環境決定論のガイドラインの枠から外れた目的論的進化論だけが、観念論である。そのような観念論は、神が生物進化をもたらす昔ながらのおとぎ話になるはずである。
(2011/01/19)

 

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