16f)ヘーゲル式幸福論
ヘーゲルにおける現実肯定と諦念は、共産主義や実存主義において憤慨のネタである。ヘーゲルのこの妥協をフランス革命が残した虐殺テルミドールとナポレオンの現実から説明することも可能であろう。しかしカント批判を通じて不可知論を根絶したことにより、ヘーゲルにおいて真理の実現は既に革命ではなくなっている。したがってむしろこの点についてのヘーゲル理解の仕方は、次のようになされるべきである。すなわちカント超越論は不可能な無限認識を要求する極端な方法論であり、絶望の思想である。それだからこそそれは不幸を是認する。したがってその自己否定は現実否定であり、そのさらなる否定は必然的に現実肯定になると言うことである。非現実な認識の拒否は、現実的な実践の肯定へと連なる。それゆえにヘーゲルは、仕事を人間の自己産出行為として捉える。労働を人間の自己産出行為として捉えたものとして、ヘーゲル思想を高く評価したのはマルクスである。しかしこれはヘーゲルの妥協を踏襲し、さらに共産主義的に偏らせた解釈である。なぜならヘーゲルにおいて重要なのは労働ではなく、事であり、仕事だからである。むしろヘーゲルにおいて労働は、その奉仕の姿において最初から疎外された仕事であり、どちらかと言えば不幸な仕事である。逆に言えば幸福な仕事とは、その最初の姿のままにある仕事である。そして端的に言えば、仕事こそが幸福である。まず仕事は、認識が対象に到達するための唯一の窓である。個人はその窓を通して対象と一体化する。つまり個人は生きるために仕事をする。さらにそれは、個人が他者に関わる唯一の窓である。個人はその窓を通して他者と会話をする。そこでの個人は、生産物の交換を通じて他者に承認される。それは他者を媒介にして対自する自己意識の運動である。つまり個人は、生産物の交換を通じて自己を知る。それゆえにヘーゲルにおいて労働をしない自己意識、すなわち奴隷ではなく主人の自己意識は、対自態に達することの無い意識の即自態である。もちろん仕事と関わらない人間関係も可能である。しかしその関係は、物品の生産と交換に関与しないのであれば、非生産的な虚しい関係に留まる。ハイデガー式に言えば、仕事や労働を通じない諸個人の関係とは、曖昧で空談と好奇心に終始した頽落の関係である。それゆえに個人は仕事を希求し、そこで幸福を知るべきである。すなわち人間は幸福となるために仕事をし、仕事において幸福を知る。これがヘーゲルの幸福論である。
16g)疎外された労働
仕事がもともと自ら生きるための実践であるのに対し、他者のために奉仕する仕事は労働と呼ばれる。ただし区別されたとはいえ労働は、他者を媒介にして自ら生きるための実践であり、仕事であるのに変わりは無い。ヘーゲルにおいて、ここで奉仕を受ける他者の最初の姿は、一般者としての教団である。しかし既に見たように、もし一般者ではない宗教団体が教団として現れれば、個人の労働とその仕事目的に分裂が生じる。その分裂は労働を、個人に対立する物へと変えてしまう。もちろんそれは、マルクスが示した疎外された労働の姿である。一方でヘーゲルにおいて仕事を通じた目的の実現こそが、カント不可知論への反駁であった。ところが個人が仕事において目的を実現できないとすれば、不可知論は生き残ってしまう。それが言い表すのは、意識が労働疎外において対象を認識できないと言うことである。当然ながらこの不可知の現実を解消するためには、疎外された労働の克服が必要である。もちろん究極の真の認識成立から言えば、おそらくそうであろう。しかしそうであるなら、労働疎外の無い理想社会の実現を待たなければ、人間は真の認識に到達できないことになる。それはそれで変な話である。またそうであるなら、迷妄の中にある現代において、真の認識に到達する方法を知り得ないことになる。それはそれでさらに変な話である。ここには、意識を迷妄に扱ったスピノザ唯物論と同じパラドックスが復活している。それゆえにヘーゲルは、「精神現象学」の自己意識の章における主人と奴隷の弁証法の記述で、奉仕する労働についてその自己否定的献身を讃美する。この讃美は一見するとカント式の不幸に対する容認である。ところがヘーゲルは労働が奴隷を主人に変えることに期待し、奴隷における不幸の受容に反発している。またそこで反発しないのであれば、カント式の不幸容認にヘーゲル自身が本当に落ち込んでしまう。果たして労働は幸福と不幸のどちらなのか? 簡単に言えば、ヘーゲルの結論は、労働は目的の実現に通じているがゆえに幸福であり、不幸ではない。言い方を変えるなら、労働はそれ自身が自由であるゆえに幸福であり、不幸ではない。しかしヘーゲルにおいてその結論は、積極的に労働疎外を無視している。つまりヘーゲルにおいて労働は、それが疎外された労働であっても、やはり幸福である。そこでのヘーゲルは、カント不可知論の呪縛を解くために、労働者の不幸をなにがなんでも幸福に扱っている。マルクスが労働疎外について語る必然性は、このヘーゲルの現実離れに対している。
16h)労働の美化
疎外された労働について語ったのは共産主義であり、マルクスである。そこには、ヘーゲル認識論がカント不可知論と正反対の全能論になっていることに対する批判がある。ヘーゲルの全能論では、個人の認識は仕事を通じて対象をつかみ取り、個人と対象は一体になる。またその行為は、他者に関わる唯一の窓であった。ところが疎外された労働では、仕事の有する可能性と現実性の全ては逆転している。その労働は、個人が他者に関わる可能性を奪い、個人の言葉を封鎖する。その認識は対象を奪い取られており、個人は対象と一体になることができない。それは単なる苦役であり、それだからこそ個人にとって労働は嫌悪の対象となる。ところが労働から離れた個人は、他者に関わる唯一の窓を失ってしまう。その認識は対象に到達することも無く、次第にその意識も退化してしまう。ヘーゲルに従えば、個人は仕事を通じて目的を実現し、幸福とならねばならない。ところが現実の個人は、厳しい労働の現実によって骨の髄まで苦しんでいる。言い換えれば、労働は目的を実現せず、個人を不幸にしている。仕事において個人は自らが主人であったのに対し、労働における主人は既に個人ではない。それは個人と一体にあった共同体でもない。個人に対立する国家が、今では個人を支配する。またその労働における個人の奉仕も強制されたものであり、自ら進んで行うものではない。もちろんこの変化の背景には、剰余生産物の発生に伴う共同体内部の階級分離、すなわち支配階級の登場がある。これにより労働は個人に対立したものとして現れる。以前なら奉仕した労働の成果は労働する個人に還流したが、今ではそれは支配者のためにある。それゆえに個人は、自らが共同体と一体にあるのではなく、それから切り離れているのを自覚する。それは自らの孤独な個人としての自覚である。そしてその自覚が表現するのは、個人における故郷の喪失である。 マルクスはヘーゲルに刃向かって次のように言う。すなわち、労働の本来の姿は幸福である。しかしその現実の姿は苦痛なのだ、とである。しかしそのヘーゲル批判の一方でマルクスは、カント不可知論の呪縛を解く必要を理解している。そしてマルクスもまた、意識を迷妄に扱ったスピノザ唯物論のパラドックスが復活するのを望んでいない。それだからこそマルクスは、ヘーゲルと同様に労働を幸福と捉える。このときにマルクスは、自らが示した疎外された労働が持つ否定的側面、すなわちそれ自身が隷属と不自由であり、人間を物体に変えてしまうだけの労働について沈黙してしまう。結局マルクスが示したこの一種あいまいな姿勢は、共産主義における労働美化をもたらし、労働が人間を生み出すとか、労働が人間を矯正するとかの労働万能主義を共産主義運動の中に残した。後の共産主義運動では、そのカルト化し誤った労働観をさらに脳無し行動主義と癒合させた特異な非合理主義が開花した。ここで言う脳無し行動主義とは、行動重視を思想軽視で体現し、一切の批判を封じ込めるエセ唯物論のことを言っている。
(2017/11/26)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15b)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知