15l)使用価値と交換価値の矛盾
もともと貨幣を媒介にしない商品交換では、商品交換は交換する相互の自己都合で行われる。すなわちその商品交換では、交換の当事者が互いに自分に必要な物を相手の必要な物と交換するだけである。ただしはそれは、自分に不要な物を自分の必要な物と交換すると言うべきである。なぜなら自分に不要な物は、その商品生産に投下した労働力の大きさに関わらず無価値だからである。したがってそこには交換価値の出番は無く、使用価値に従った商品交換だけがある。しかし交換価値を無視した商品交換は、交換の当事者のいずれかを有利にし、その分だけ相手を不利にする。そこに現れる有利は、受け取った商品を再生産するのに必要な労働力量が、手放した商品を再生産するのに必要な労働力量を超える場合に生まれる。すなわちそれは、使用価値と交換価値の差額略取としての特別剰余価値である。ただし使用価値を基準にした商品交換でこの損得はすぐに露見しない。露見は不利益を受ける側が、不利益な商品交換を繰り返したときに起きる。使うほどに損をする商品使用、または作るほどに損をする商品生産を続けたあげくに困窮し、場合によって死滅することそれ自体が露見となっている。この不都合は使用価値と交換価値の齟齬に起因しており、それに対して不利益を受ける側の商品使用者または商品生産者は、何らかの手立てを講じなければならない。そこでその商品使用者または商品生産者がまず行うのは、自分の商品と他の商品との交換量の一覧を作ることである。しかしその交換量の一覧は、多種多様な商品を羅列して複雑な上に、時と場所の変化に対応せず、また精度にも欠けている。そこで求められるのが、自分の商品を含めた全ての商品を特定の商品の量で表現する工夫である。当然ながらその商品が果たす役割は、商品価値を表現する度量単位である。そしてその使用目的はその特定の商品に対し、均質で細断と合一が可能であり、かつ蓄蔵可能な不朽性、そして何よりも価値の時空を超えた均一性を要求する。この価値の均一性とは、商品再生産のための労働力量の同一性である。もっぱらこの同一性をさらに保証するのは、その商品素材の希少性である。この要求を満たす特定の商品が金であり、すなわち貨幣である。
15m)等価交換の実現
使用価値と交換価値の矛盾は、貨幣を登場させただけでまだ終焉しない。なぜならそれだけでは、商品交換者それぞれの持つ商品交換一覧の表現が貨幣表示に変わるだけだからである。商品交換者は、商品交換一覧における度量単位の統一と同時進行で、商品交換一覧自体の精度向上を行わなければならない。すなわち各商品価格の妥当性を模索しなければならない。もともと商品交換の一方における有利は、使用者ではお買い得、生産者では作るほどに儲かる形の特別剰余である。逆に商品交換の他方における不利は、使用者では買い損、生産者では作るほどに損をする形の特別損失である。それゆえにもし商品が前者の形で使用者にとって割安な価格が維持されるなら、生産者はその商品の生産を余儀なく停止する。逆に商品が後者の形で生産者にとって作り得な価格が維持されるなら、使用者はその商品の使用を余儀なくやめる。これはもっぱら需給均衡による価格決定だと解釈されている。しかしその内実は、商品価格が特定の価格へと収束する運動に過ぎない。その特定の価格とは、その商品の再生産に必要な労働力量を表現する値である。そしてその特定の価格の実現において、ようやく使用価値と交換価値の矛盾は終焉する。このときの商品交換の姿は、最初のときの使用価値による商品交換の姿でなく、交換価値による商品交換の姿に変わっている。かつての使用価値による商品交換は、交換価値による商品交換によって一掃されている。ただし一掃されたと言っても商品の使用価値が無くなったわけではない。ただ使用価値の表現する労働力量が、交換価値に吸収され、交換価値と等価になっただけである。このときの商品交換は、常に等価交換である。なぜなら生産者が実際に交換するのは、商品の交換価値相当の貨幣との交換であり、使用者が実際に交換するのも、商品の使用価値相当の貨幣との交換だからである。これにより使用価値と交換価値の乖離は、貨幣価値を含めた商品の生産と流通の環境的変動を無視するなら、剰余価値を発生する特殊な条件でのみ現れるようになる。逆に言えば、恒常的な等価交換の成立こそが、資本家による剰余価値取得の前提になっている。なぜなら等価交換の前提は、労働者と資本家の双方に対し、労働力の使用価値と交換価値の乖離を隠す煙幕になるからである。等価交換の実現こそが、資本家における搾取実施者としての無自覚を可能にし、労働者における搾取被害者としての無自覚を可能にする。
15n)マルクス商品価値論とシェリング存在論の比較
マルクスの商品価値論を存在論から解釈して見えてくるのは、シェリングとマルクスの類似である。両者ともに対象を可能性と現実性の構造体の形で捉え、そのそれぞれを自由と支配で理解し、そのせめぎ合いと統一において対象の現実存在を現す。単純比較で言えば、シェリングにおける存在が可能性に向いているのに対し、マルクスの交換価値は現実性を体現している。しかしマルクスにおいて交換価値は、可能性を奪われ疎外された使用価値である。つまりその価値法則は資本主義社会における必然に過ぎない。したがってマルクスにおいても商品価値の本来の姿は使用価値であり、可能性である。共産主義社会では価値法則が廃棄され、使用価値による商品交換が復活する。このときの価値法則の廃棄は、商品交換における使用価値の復活に留まらず、可能性を奪われ疎外された労働の復活を表現している。一方でシェリング存在論における可能性と現実性は、未来と過去として表現され、その結合において現在が現実存在として現れる。一見するとこの時間論は見事である。しかしそれだけだと、その内実は単なる現象論である。その理屈を価格理論にあてはめると、それは需給均衡における価格決定でしかないからである。そこでシェリングはこの現象論が持つ機械的唯物論に対抗するために、未来と過去の結合を主体の決意から語る。しかし需給均衡における価格決定は、もともと顔の見えない多くの個別者の決意のせめぎあいの結末である。それゆえにここでの決意は、カレーライスにカレールーを増量した程度の役割しか果たさない。しかもその決意には方向性が無く、使用者と生産者、支配者と被支配者、資本家と労働者のいずれの決意なのかも不明である。ただしシェリングにおいて、それはそれで当然なことである。なぜかと言うと決意しているのは普遍者、すなわち神だからである。その現実性は、単なる過去一般として現れる事実であり、煎じ詰めて言うと自然である。当然ながらその現実性は、多者間の単なる数量的関係でしかない。そのような現実性から帰結する可能性は、結局のところスピノザ式の自然の可能性、すなわち自然法則にならざるを得ない。それでもその帰結に満足せず、その機械的唯物論を避けようとすれば、今度はショーペンハウアーの言う正体不明な盲目的意志がその肩代わりをする。これらのことが示すのは、シェリングの存在論には存在の可能性についての論述だけがあり、それを規定すべき存在の現実性についての論述がずぶ抜けていることである。一方でマルクスは未来と過去の結合を、シェリングのように神的意識の決意で実現しようとせず、あるいはヘーゲルのように支配される者と支配する者の融和で実現しようとせず、商品使用者と商品生産者の協業において実現を目指す。マルクスにおいて協業の実現は、両者の利害が一致する唯一の均衡点に収束するものであり、そのための決意も融和も不要である。もちろんその均衡点とは、使用者と生産者の商品交換を可能にする価格のことである。しかし均衡点の存在は、単なる便宜上の都合で生まれている。それは協業する者同士における不利益の回避である。そこに不利益の発生が無ければ均衡点は不要であり、代わりに協業の全体における相互扶助の関係が現れる。それは使用価値に従う協業であり、交換価値は均衡点としての役割を終える。それではなぜ協業する者同士における不利益が生まれるのかと言うと、そこに階級分離における支配関係が登場したからである。そしてなぜそれが登場したのかと言うと、協業する者同士における相手の不利益の追求を契機にしている。偶然の不利益は自由市場が補正する。また協業する者同士において自らの利益の追求が相手の利益となる場合、相手を屈服する支配力は必要ではない。しかし自らと相手の利益が相反する場合、相手を屈服する支配力は必要となってくる。限られた生産力において資源争奪をする場合、支配の必要性が厳しい現実として現れるわけである。つまり協業する者同士における不利益の回避は、皮肉なことに協業する者同士における不利益の追求がもたらしている。搾取と被搾取の関係はその始まりにあった必然性を身分として固定し、造られた支配関係を先験的関係として固定化したものである。ただしそれは、永続的な関係ではない。簡単に言えば、未来はどんどんと過去を侵食し、自由は支配を次々に廃絶するからである。(2017/11/12)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知