経済学における唯物論と観念論の対立は、商品価値を規定するものが何かを巡って発生している。その対立は、唯物論の示す労働価値論、および観念論の示す限界効用理論の対立である。それは、物質が商品価値を規定するのか、意識が商品価値を規定するのかを巡る対立であり、お馴染みの唯物論と観念論の対立図式の再現にほかならない。 限界効用理論は、マルクスの資本論第一巻の発刊後すぐに、労働価値論への批判として登場した。エンゲルスも、マルクス没後に刊行された資本論の編者序文で限界効用理論の観念性に言及している。とくに資本論第三巻巻末のエンゲルスによる編者補記は、限界効用説に対する労働価値説の弁護論として一級品である。エンゲルスの説明はプルードン水準に留まる労働価値論だが、限界効用理論の観念性に反駁するには、このプルードン水準の説明の方が簡明で良い。しかし限界効用理論は、経済学における共産主義批判の目玉として、また唯物論に対抗する先進理論として、経済学に留まらずにほとんどの思想領域で熱烈に歓迎された。ロシア共産主義の失敗を経験した現代に至っては、観念論者は限界効用理論の勝利を既定事実であるかのように語り、労働価値論を死んだ犬のように扱っている。 この限界効用理論による共産主義批判でおそらく一番有名なのは、ベーム・バヴェルクによる資本論批判である。バヴェルクによる資本論批判は、煎じ詰めれば、観念論による唯物論に対する一般的批判と資本論第三巻での利潤分析における記述矛盾指摘の2本立てである。前者は意識が商品価値を規定するという理屈の繰り返しなのだが、後者は資本論記述の誤りを見事に指摘したものとなっている。後者の指摘における資本論記述の誤りは、資本論における流通費の扱いの誤りに引きずられて発生したものであり、労働価値論において修正可能な誤りである。また筆者は、ホームページで展開した資本論の再構築でそれを行ったつもりである。しかし前者の指摘はそうではない。後者の指摘の正しさは、前者の指摘、つまり意識が商品価値を規定するという理屈の正しさを証明しない。ところがバヴェルク以後の近代経済学における共産主義批判は、そのことを無視し、ひたすらバヴェルクを踏襲して、意識が商品価値を規定すると連呼し続けてきた。
労働価値論は、商品Aが商品Bと交換される場合、交換される各商品の生産に要する労働時間総量を同じとみなす。ただしこの思いみなしは常に正しく行われるわけではない。むしろ交換の両辺に現われる各労働時間の不均等の方が、商品交換の最初に現われる。このような交換される労働時間の不均等は、もっぱら生産地や技能などの生産条件の独占が条件となっている。労働時間の均等交換は、不等交換を適正化した結果としてのみ現われるのだが、生産条件の独占を解除できないのであれば、労働時間の不等交換も残らざるを得ない。マルクスは、労働時間の不等交換によって得られる利益を剰余価値および特別剰余価値として表現した。これらの剰余価値は、資本主義以前では、身分制度を通じた暴力的な人間支配において実現されてきた。資本主義が生産技能の独占において剰余価値の実現を目指すのに比べると、旧時代での剰余価値の実現方法は、人倫面で問題を抱えたかなり理不尽なものである。とはいえ資本主義での剰余価値の実現方法も、相変わらず人倫面で問題を抱えている。資本家は、かつて旧時代の支配者が行ってきた理不尽な剰余価値の実現方法を、今度は自らが積極的に摂取し、それを利権維持と貧民支配の強力な武器として保持するからである。それは生産や販路の新形態の独占、または土地所有のような旧時代の独占の存続として現われる。それは、単に生産力発展の桎梏となっているだけではなく、人間そのものの破壊を社会に撒き散らしている。ただし特別剰余価値は、労働価値論として見れば、不等交換の適正化が遅れた特殊なケースにすぎない。見方によれば、商品に付随した特殊な必要労働力量として特別剰余価値を扱うことも可能である。とくに新しい技術の開発には、研究開発や人選のための多大な人件費を要し、しかも成功する確率も低い。このために、技術や才能により得た特別剰余価値を労働時間の不等交換の結果として扱うのは問題がある。いずれにせよ、そのように特別剰余価値を利潤として分離しない見解は、労働価値論において、支配労働価値説に分類される。以下では、労働時間の不等交換の概要とその適正化の流れを示し、労働価値論の正当性を確認する。
労働価値論は、商品Aが商品Bと交換される場合、交換の両辺に現われる各商品の生産に要する労働時間総量を同じとみなす。もし同じではなく、例えば「商品A>商品B」の形で生産用労働時間の不均等があれば、商品Aから商品Bへと生産者の移動が起きる。つまり資本移動が発生する。なぜなら生産者は、より少ない労働でより多くの使用価値を実現することを目指すからである。ただし資本移動が起きるためには、商品生産および販路、土地所有などの権利的独占が無効となっている必要がある。ここで言う権利的独占とは、例えば石油の採掘に見られるような中東王制による資源の寡占、または石油の元売に見られるようなアメリカ石油メジャーによる販路の独占を例としてあげられる。 なお「商品A>商品B」の形での生産用労働時間の不均等は、商品価値として見ればそのまま「商品A>商品B」となるが、商品価格として見れば「商品A<商品B」と逆転して現れる。例えばAとBの各商品の生産用労働時間が「2日:1日」の比率表現であるなら、均等交換としてあるべき両商品の価格表現も、例えば「2万円:1万円」である。両商品の交換も、A=2Bで実現するはずである。ところが不等交換ではそれが、例えばA=Bで実現する。この場合だと両商品の価格表現は、「2万円:2万円」となる。そのことが意味するのは、商品Bの生産者が、2万円の商品Aを実勢価格1万円の商品Bで交換できることである。言い換えるなら、不等交換により商品Bの生産者は、1日分の労働で2日分の労働を買い取れるわけである。2万円を1万円と交換することは一般的にあり得ない。しかし商品Bの価格が実質的なぼったくり価格として自らを確立するなら、このあり得ないことが現実に起きる。 このために場合によっては、例えば商品Aの販路が確実であるなら、商品Bの生産者は、自らの商品Bを全て商品Aに交換することも発生する。この場合、それによりさらに商品Aの価格高騰が起きるかもしれない。ただしその価格高騰は、商品の希少性に対する心理的強迫がひき起こしたと考えるべきではない。価格高騰は、在庫確保のための必要労働時間が、商品Aの商品価値に追加されたことの反映だからである。在庫確保は、それ自体が生産活動なのである。このような偶発的な価格高騰は商品Aの高値安定をもたらし、両商品の価格表現を「4万円:2万円」にする形で、商品Aと商品Bの不等交換の適正化を実現するかもしれない。しかし商品間の不等交換の適正化は、このような偶発的かつ爆発的な適正化ではなく、以下に示すように、資本移動を通じた一般的事象として説明すべきである。ちなみに世の中に商品がAとBの二種類しかない場合、商品Aの高値安定とは、すなわちインフレにほかならない。
商品Bに比べて労働対価の低い商品Aの生産に見切りをつけて、商品Aでの不採算部位が商品Bの生産へと移動すれば、そのことは商品Aの平均的な商品価値を減少させる。不採算部位とは、優良部位に比べて、商品生産に対する労働効率が低い部位である。そこでの商品は、生産に必要な労働力総量も大きいので、その商品価値も大きい。言い換えれば、生産コストが割高である。そのような不採算商品の消失は、商品Aの平均的な商品価値、および平均価格の下落をもたらすからである。それは、同じ商品Aの生産者において、不採算部位に対して有利な条件にいた生産者の特別剰余価値を消失させる。ただしこのこと自体は商品Aの平均価格の低廉化をもたらし、商品Aと商品Bの平均価格の価格差を増大させ、両商品の不等交換をさらに助長する。 一方で不採算部位が流入した商品Bの生産では、商品Aの低廉化を超える勢いで、商品Bの平均価格の低廉化が起きる。競合する商品Bの生産者の増大は、商品Bの価格低下圧力となるからである。もともと商品Aとの関係では、商品Bはその生産に必要な労働時間に比べて、その設定価格は割高であった。したがって新興の商品Bの生産者の生産技術が稚拙でも、新興生産者たちは、その割高価格が維持されている限り、十分に生産活動を継続できる。むしろ新興の商品Bの生産者たちは、以前より裕福な生活ができる。逆に旧来の商品Bの生産者たちには、凋落する小ブルジョアの運命が待っている。旧来の生産者たちは、貧困に慣れた新興生産者たちと価格競争をする必要があるからである。市場には、新興生産者たちが作った商品Bが大量に出回る。そのことは旧来の生産者たちに、価格競争、または付加価値追加のための労働時間追加を強いる。結果として、商品市場に陣取る神の手は商品Bの価格を、特定の商品価値を表現する価格にまで引き下げる。その価格は、商品Bの生産に要する労働時間総量を体現した価格である。そしてそれ以下にまで商品Bの低廉化は進まない。なぜならそれを下回る形で商品Bの価格が低廉化すれば、商品Bの生産者に飢餓がもたらされるからである。商品Aから商品Bへの資本移動は、その価格実現を待ってようやく停止する。これが商品間の不等交換の適正化の実現であり、すなわち商品間の均等交換の実現の流れである。 資本主義における商品の価値は、生産に要する労働時間総量を上回る価格表現に対し小市民的悦楽と資本流入をもたらし、生産に要する労働時間総量を下回る価格表現に対し飢餓と資本流出をもたらす。だからこそ商品の価値とは、生産に要する労働時間総量なのである。そして資本主義は、この法則を労働力商品に対しても適用する。つまり資本主義において労働者の生涯賃金は、特定の額面を上回ることも下回ることも無い。その額面とは、次代の労働者の再生産に要する労働時間総量を体現した金額である。言うなればそれは、労働者の命の価格である。しかし生涯賃金が本当にその商品価値を実現しているなら、それは労働者の生活を保証したものであり、悪くない話である。資本主義の恐ろしいところは、この商品価格の偏差を是認し、それを助長するところにある。このとき、運良く生涯賃金の増分の側に立つ人間には、小市民的幸福が訪れる。しかしその反対側には常に、いわれの無い生まれついての貧困が出現している。この不合理は往々にして人間の中から悪鬼を生み出し、社会に恐怖と苦痛を振り撒く。しかしこの同じ不合理が、パンドラの箱の底に潜む希望を呼び出すことになる。(2012/07/13)(続く)唯物論者:記事一覧
バヴェルクによるマルクス生産価格論批判についての筆者の記事は以下
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