唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(10.宗教と絶対知)

2017-09-09 23:19:24 | ヘーゲル精神現象学

10)宗教の誕生

 物を現実として捉えた場合、意識は現実の対極にある非現実である。当然のことながら純粋意識は、内容を持たない無として現れる。それゆえにこの純粋意識は、純粋思惟と違い本来的に自由である。この純粋意識に対して純粋思惟は、自由を自らの内容として執着したストア主義として現れた。その自由への執着は、自らの現実的不自由を前提にしている。この純粋思惟との比較で言うなら、純粋意識は純粋自己でもある。それは純粋な対自として現れた意識一般である。純粋意識の所在は、彼岸に求められる。それゆえにその純粋意識に求められる思想も、彼岸の思想とならざるを得ない。しかしここでの彼岸の思想は、現実逃避としての信仰にすぎない。この信仰の対自存在が、純粋透見である。一方で意識一般に奉仕し国家に支配される奴隷は、対自において教養を自らの一般的意識にする。この教養は、自己から疎外された意識に与えられた観察理性である。またそもそも意識は疎外において自己利害を拒否するので、自ずとその自己意識は観察理性であるより外にない。奴隷の人格的個性があるとすれば、それは教養から外れた奴隷の個別意識としてのみ現れる。しかし奴隷は、理性的であらねばならないゆえに、信仰と国家に一体化した自己自身と対峙する。もちろんこのときの奴隷の対自存在は、純粋透見としての自己である。そしてその自己は個別意識の自己ではなく、意識一般の自己である。一方ここで純粋透見が見出す信仰と国家は、迷信と専制である。奴隷の教養は信仰にも国家にも反逆せざるを得ない。このときに奴隷の教養は、反逆の思想として啓蒙へと転化する。しかし反逆の結末がもたらした教養と国家の廃止は、教養と国家の再興に帰結するしかない。反逆の思想がこの悪無限を回避するためには、啓蒙はあらかじめ教養と国家を再興する思想である必要がある。それゆえに革命を成就した奴隷は、権力と富を欲する。ところが主人となった奴隷にとって権力と富は、もともと自らの存在ではない。奴隷は純粋自己としての無内容な自己自身を自覚し、無内容な自由の実現を悟る。その意識の前には現実の彼岸が露呈しており、自己を除く全ての此岸は空虚なものとなる。その意識は奴隷の個別意識ではなく、一般者を自覚した自己である。ヘーゲルは、この奴隷の自己意識に現れる思想を宗教だと考える。それは現実逃避の信仰ではなく、非現実なだけで彼岸に関わらない徳の意識でもなく、自己と自由に執着するストア主義でもない。それは、現実を全面否定して最初から自由な自己確信である。


10a)対象に留まる物自体の廃棄

 彼岸の思想としての信仰は、現実を拒否した無内容な意識である。一方で啓蒙は、此岸から彼岸を捉える透見として現れ、信仰の無内容に独断的に対立する。それに対抗して信仰は、啓蒙の独断を自らの内に取り込む。偶像崇拝、原理主義、実利信仰は、ここで現れる信仰の変様である。それらは信仰として現れた思想の思い込まれた対他存在である。すなわちそれらは意識が生み出した思想である。ここでの信仰の対象は、対象が持つ有用にあり、対象自体は有用性として現れる。有用性は対象に留まる自己自身である。しかし啓蒙が同じ信仰の対象に見い出すのは、物自体である。それは、純粋物質と純粋思惟の対立した抽象で二様に現れる自己意識にとっての感覚的他在になっている。ただし信仰において物自体は、二様のいずれにおいても有用性であり、有用はその対他存在である。なぜなら偶像も原理も実利も信仰が思いみなした神的実在の代用品だからである。それらは、物ではないし、意識の自己とも異なる観念である。あるいは逆に物に過ぎないが、思い込みの自己意識としての物神である。そのことは物自体が二様に現れることに対応している。もともと自己肯定する自己意識の即自態では、自己自身と自己の一致において、現存在における他在は有用な実利的存在であった。そこでの神は自己の外に立つ自己自身であり、自己と結合する外在の有用性であった。しかし自己否定する自己意識の対自態では、神は外在するままに自己と結合することは無い。そこで自己意識の方が逆に全ての他者にとっての有用な自己を目指すことになる。ところが信仰による彼岸への超越は、個別的享楽の拒否において満足することが無い。なぜなら有用性が対象に留まるので、意識の自己は自己自身を手に入れられないからである。つまり有用性が対象の述語に留まっている限り、意識は対象に従属する。そのような意識に自由はない。信仰による彼岸への超越は、超越ならぬ憧憬に留まる。一方で啓蒙は信仰に対し、享楽の拒否が普遍的行為の実現ではないこと、または享楽の実現も普遍的行為の実現であること、さらに行為自体ではなく行為の意図に普遍が存することを訴える。啓蒙が対象にする有用性から見ても、感覚的確信と教養が対象にしてきた自然世界と信仰世界の全ては一般性や実在性の欠けた虚しいものである。ここで露見するのは、個別者における一般者との一体化は、名誉でも財でもなく、信仰の天上でもないことである。信仰の感覚的確信からの脱却は、物自体の不可知と空虚を超越し、対他的有用の実現を目指さざるを得ない。すなわち奴隷は彼岸の主人に奉仕するのではなく、自らが此岸の主人になるべきである。


10b)道徳

 さしあたり啓蒙が信仰に促す自己意識の移行の場所は、此岸の現実に根差す道徳的精神である。ただしこの道徳的精神においても意識の自己は、自己自身と一致することの無い一般意志に留まる。義務の実現は義務の死滅に等しいので、義務は自己意識にとって物自体のままに留まるからである。したがってここでも意識の不幸は解消されない。しかしそこには意識の現実にとって良いこともある。もともと意識の現実は、自然において既に純粋義務と自然法則の統一、すなわち幸福を実現していた。そこでの神的実在は、自己意識に対して義務として現れていた。そして義務の遂行において目的と個人は一体化し、個人は満足する。この一体化を破ったのは意識の自己疎外である。その自己否定は、目的を到達不可能な純粋義務に変え、それを現実的個人から乖離せしめた。純粋義務と自然法則の統一、すなわち理性と感性の統一において、感性は常に廃棄対象なのである。このような自己否定に対して道徳は、この非現実な義務を現実に調停する。その神的実在は単に義務であるわけではなく、不完全な現実意識を完全と認め、彼岸からそれに幸福を分与する世界観になっている。その現実的な道徳性が目指すのは、自己意識と自然、および道徳と幸福の調和である。それゆえに道徳において意識は、目的達成の幸福を知るようになる。ただしそこに現れる調和は、悪く言えば妥協に過ぎない。したがって自己意識と自然、道徳と幸福の対立は、往々にしてむしろ激化する。そこで道徳的意識は、非道徳な現実を道徳的理想に扱い、無内容な純粋義務の遂行を目的実現とみなす欺瞞へと入り込む。道徳が持つこの非道徳性は、自己意識を道徳から離反させる。ここでの自己意識の理性に対する離反は、自己意識の感性への復帰として現れる。それは悪徳と化した道徳の放棄であり、意識の本来的自然への回帰である。


10c)良心

 自己否定の否定は、自己意識の絶対的な自己肯定に帰結する。その意識の自己は、自律する自己についての純粋知である。そこでの義務は、個別と一般が一体化し、他者の承認を要しない信念として現れる。それは個別に現れる偶有を容認し、むしろそれを現実知と理解する。したがってその信念は、個別の要請の全てを満たさずとも正義を実現する個別者の恣意である。ただしそれはストア主義的恣意と違い、対他存在する意識の即自存在である。すなわちそれは言葉として対象化されなければならない。なぜならその恣意は言葉に言い表されることにおいて決意となり、意識一般はその意識の自己を良心として承認するからである。そこでの決意の内容は意識一般にとってどうでも良い事柄に留まる。なぜなら意識一般は、良心を個別に還った純粋義務として理解するからである。したがって意識一般にとって良心は、行動結果ではない。すなわちその信念は言表において言葉として実在するのであり、行動である必要は無い。なぜなら行動は、言葉が形態転換したものに過ぎないからである。ただし良心が現実知である限り、それは行動する良心としてまず現れる。行動する良心は対自することのない即自態だからである。それは良心の個別態であり、その一般的姿は自律する自己についての純粋知である。個別態の良心は相互に対立し、義務一般とも対立する。ところが義務一般は良心自体なので、それとの対立は個別的良心を悪にしてしまう。そこで自らの義務に従う良心は、義務一般と対立する矛盾に直面せざるを得ない。それゆえに個別的良心は、義務一般を承認する一方で、義務一般の非存在や不可知を主張するようになる。そのような即自態に留まる行動する良心に対し、自己評価する良心がその対自態として現れてくる。行動する良心と評価する良心は対立するが、両者は融和せざるを得ない。行動する良心は、評価する良心を通じて自らの悪を自覚し、自らの行動を断念する。また評価する良心も、行動する良心の悪が自らを形成する必然的契機であるのを知り、行動する良心を赦す。両者は各々の自己否定において相手の内に統一し、その融和において絶対精神となる。


10d)宗教と絶対知

 ヘーゲルの精神論において物と意識の二極分離は、神々の掟と人間の掟の対立としてまず現れ、自己否定を通じた国家の成立においてその対立を一旦収束する。しかしそれは次に幸福と善の二極分離となり、国家における啓蒙と教養の対立へと転化する。この対立の収束は、革命の成就における自己否定の否定により再び収束するように見える。しかしそれは一方で富と国家、他方で自然と道徳、さらに言えば悪と理性の対立へと向かう。なぜならまだ否定の否定は完結しておらず、対立の収束は歴史的理性の実現を要するからである。その実現をもたらすのは、対立する良心の個別態と一般態の融和である。その融和は、宗教を即自態とし、絶対知を対自態にする。宗教とは無我に達した自己意識の自由の境地であり、絶対知とは赦しにおいて全てを浄化する知である。その絶対知が得た各種の先験的カテゴリーは、意識の諸経験において現れたものである。しかし絶対知にとってそれら諸経験の個別態と偶然性は、実は先験的カテゴリーを導出するための一般態と必然性になっている。そのことが意味するのは、絶対知が自己確信を得ていることである。なぜならいかなる苦悩も困難も絶望も、意識が神と一体化するための道程に過ぎず、その知において意識は全ての自己否定から自らを解放するからである。理性の章でヘーゲルは、カント式物自体が持つ認識論的不可知を事自体の可知において対抗した。この精神の章でヘーゲルは、カント式定言が持つ道徳論的不幸を達観知の幸福において対抗している。しかしここでのヘーゲルのカント批判は的を得た批判とも、見当はずれのすり替えとも見える。なにしろヘーゲルの認識論は直接知に回帰することも無く、道徳論の解決は個別者の不幸を振り返ることもせずに一般者の幸福に終わるからである。とくに後者の解決は、宗教そのものである。ヘーゲルの弱点がその観念性にあるのは明らかである。とは言えこの巨大な思想的構築物が、捨て去るのを許さない強力な力を持っているのも確かなのである。マルクスとキェルケゴール、あるいはハイデガーがこの思想的構築物の補修に腐心したわけだが、実際には思想世界におけるヘーゲルの「死んだ犬」化は進んでおり、今ではヘーゲルのそもそもの論理学としての側面がほとんど世間的に顧みられなくなっている。それは憂慮すべき状況である。
(2017/09/09)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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