唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(4.知覚と情念(2))

2018-11-15 22:53:13 | ハイデガー存在と時間

9)悟性における知覚と物理的対象の結合

 価値判断として現れる情念は、それ自身が既に現存在の投企になっている。この価値判断を実現するのは、悟性による内感と価値の結合である。そしてその原型は、悟性による知覚と身体外の物体の結合に遡る。しかしこのことは、先に示した知覚の物理規定に対し、反証になりそうに見える。その場合に予想される解釈は次のようになる。すなわち悟性による知覚と身体外の物体の結合は、実際には現存在の投企であり、したがって現存在の知覚は既に意識だと言う解釈である。それは唯物論に対抗した新カント派に見られるように、知覚を判断に扱う解釈へと連繋しそうに見える。しかしこの反論は、知覚の物理規定に準じる形で否定される。すなわち知覚と身体外の物体を結合する悟性の能動は、物理に準じるしかないからである。したがってその能動は、知覚と同様にやはり物理である。その結合における現存在の恣意は、単なる攪乱要素にすぎない。もし恣意が登場するにしても、その恣意は物理に劣位する。なぜなら知覚と対象の結合は、内感と対象の結合と違って眼前の直接的な結合であり、もし結合する両者の間に媒介が絡んだとしても、その間接的な結合は、せいぜい機械的結合に留まるからである。すなわちその間接性は、突かれた棒の先に突いている人が見える程度に留まっている。しかもこのような結合は、実際には無機物も行っている。無機物の運動は、それ自体が原因と結果の因果の結合であり、やはり能動だからである。そこでの両者は、結合と呼ぶ以前に分離もしていない。原因と結果の因果は、物理において貫徹しており、自由として現れる因果の解体は、意識の特権だとみなされる。そのことは、物体と知覚の間の断絶が機械論において無視可能であるのを表現している。したがって現存在は悟性に結合の苦労を与えず、それを機械へと委ねても良いくらいである。例えばそれは、監視カメラに侵入物を検知させ、警報を出させるようにである。他方で懐疑主義から見ると、この結合に対する確信は、経験的な感覚への確信にすぎない。しかし懐疑主義において感覚的確信に異議を唱え、代わりに懐疑を真理の基本に据えることができるのは、あらかじめ感覚的確信が真理の基本に鎮座しているからである。感覚的確信が真理の基本であるのは、むしろそれに対する懐疑の持ち込みにおいて露わにされてしまう。そしてこのことがさらに露わにするのは、感覚的確信に意識の自由が関与できないことである。結果的に言えば、悟性による知覚と対象の結合は、無機物の運動や特定事象に対する化学反応と同じものである。知覚における現存在の錯誤も、そこに意識の恣意を見出せたとしても、内容的に言えば単なる精度不良にすぎない。知覚の錯誤における意識の恣意は、現存在の自由ではなく物体の自由であり、自らの自由を錯覚するだけの単なる物理的偶然に留まる。


10)悟性における内感と価値の意味的結合

 悟性における知覚と対象の結合が物理に留まるのに対し、内感と対象の結合は物理になると限らない。内感は対象から遊離しており、知覚と対象の関係と違って直接的ではなく、意識の恣意が内感と対象の結合を決定するからである。内感と対象の結合が意識の恣意に従うなら、内感に結合される対象も意識の恣意において決定される。それは身体外部の物体や身体の特定部位である必要も無く、現在の内感とは別の内感や記憶に現れる表象、さらにはなんらかの概念であっても構わなくなる。ただしもし知覚同様に内感と対象の結合が直接的であるなら、その内感と対象の結合は、知覚と対象の結合と差異を持たない。所詮内感は、知覚の一種だからである。逆に内感に対応する対象が見当たらないほど内感と対象が分離するなら、内感と対象の結合は、知覚と対象の結合と全く別物となる。例えば現存在は、痒みを感じたとしても身体のどこが痒いのかと特定できないかもしれない。その場合に現存在は、適当に見定めた場所を爪で掻き、痒みがとれたことによって痒みと痒みの原因となる身体の異常箇所をようやく結合する。もし現存在が痒みの身体箇所を特定できなければ、痒みは対象を得ない直観として現存在の中で宙に浮いてしまう。ちなみに痒みは不快としてそれ自身が現存在の価値判断となり得る。そのような痒みは、既に情念である。一方で価値に結合されない内感は、もっぱら単なる直観に据え置かれ、現存在に無視される。足の裏や尻に当たる物の触感など現存在はいちいち気にしていない。そのようなどうでも良い内感は、もともと現存在の価値判断の対象から外れている。痒みの例に示した通り、価値判断の対象となる内感には、快または不快が結合される。そして快または不快の結合において、内感は価値判断となり、情念となる。このことが露わにするのは、意識が情念において始まることである。この価値判断において快または不快を内感に結合するのは、やはり悟性である。そしてここでの快や不快は、現存在にとっての価値である。もともと知覚は物理であり、現象学的に無意味な存在者であった。ここでの悟性による価値の結合が表現するのは、知覚における現象学的な意味の出現である。


11)肉体の価値判断

 上述内容において筆者は、もっぱら知覚および内感を物理に扱い、情念を意識にみなしてきた。それは、情念の価値判断において悟性の自由な結合が、内感を快不快の価値表現に変えると考えたからである。もちろんそれは、情念の価値判断を完全な恣意に扱うものではない。例えば事情や背景に差異があるわけでもないのに、同じイチゴの食感が或る時は美味しいが、或る時は不味いことが起きるのは悟性の自由に該当しない。それでは悟性の自由が単なる物理的偶然になってしまう。価値判断における悟性の自由な結合は、その悟性を駆使する現存在に固有な価値基準に従わなければいけない。ただしこの言い方では、価値判断に先行してイデアの如き価値基準が確立しているかのようである。このイデア論を避けるとすれば、悟性の自由な結合は、悟性を駆使する現存在の固有な価値基準として現れなければいけない。すなわち判決がそのまま判例となるように。価値判断は裁定において初めて価値基準にならなければいけない。ただし価値基準がイデア的あろうとなかろうと、それは現存在固有の思い込みの価値判断をもたらすだけに留まる。一方でイデア的価値判断は、先に述べたように、実際には生体の内なる自然があらかじめ既に用意している。この内なる自然とは、端的に言えば肉体である。さしあたり情念の価値判断の成否は、この肉体の価値判断との一致によって決まる。ここでもし情念の選択が誤れば、極端な場合、その生体は死滅の危機を迎える。例えば情念の自由な価値判断が全ての食事を不味さに結合するなら、肉体はその生体に餓死の罰を与える。この場合、情念の選択を誘導した快感は、挫折と死の苦痛に変わる。しかもそのまま生体が死んでしまえば、その生体は自らの誤りを自覚することもできない。したがって基本的に情念の生体は、肉体が示す価値判断と自らの価値判断が一致する個体だけが生き残る。肉体の価値判断に従う生体は、自然の価値基準に従っていることを無頓着なままそれを自ら価値判断とみなし、その価値基準に従い選択の自由を行使する。当然ながらその生体の情念は、自由に基礎づけられた意識として現れる。それは物理的な知覚ではなく、情念の姿のままに留まる。もちろん情念の側から見ると、その自由は錯覚ではない。この情念の自由は、肉体の価値判断と乖離しない限り、無尽蔵に続く。


12)情念における自由の錯覚

 生体が常に肉体の価値判断を実現しても、その生体は死の脅威にさらされることもなく、恒常的に快感に耽溺することができるわけではない。肉体の価値判断は、知性の欠落において不完全だからである。したがって情念が肉体によって規定されるなら、情念の自由とは、投げられた石における自ら飛んでいるとの思い込みと大差は無い。情念の帰属する肉体が、生体の内なる自然にすぎないからである。例えば刺し傷において生体に現れるのは快感ではなく、常に痛みである。悟性には、痛みの代わりに快感を刺し傷と結合する自由は無い。そのような誤結合の自由を行使する生体は、痛みに魅せられていずれ死ぬことになる。悟性はそのような恣意的自由を放棄するしかなく、放棄することにおいて自ら身体的物理、すなわち身体的生理と一致する。しかし悟性が常に特定の内感に特定の価値を結合し、それを変えられないのなら、その結合は結局のところ物理である。そのように情念が肉体の価値判断から乖離できないのは、情念の自由を錯覚に変えそうである。もちろん情念が肉体の価値判断に帰属したのは偶然であり、もともと情念が恣意的に決めた価値判断が、たまたま肉体の価値判断と同じだっただけである。したがって情念における自由の確信に偽りは無い。しかしそうだとしてもその自由の確信は、身分制度の特権階層に生まれた人間が、身分社会を自由な社会だと確信する程度の自己中心的確信に留まる。上記において唯物論から見た知覚と内感、内感と情念の区別を述べ、その区別に基づいて知覚における対象との物理結合と情念における対象との意味的結合、さらに知覚の不自由と情念の自由について述べてきた。しかし最終的に情念の自由が錯覚ないし単なる思い込みに留まるのなら、知覚と情念の差異もまた錯覚ないし単なる思い込みに留まらざるを得ない。この結末は、あたかも釈迦の手のひらの上から飛び出せなかった孫悟空のように、情念が自然の手のひらの上をただ右往左往しただけだったかのようである。しかし意識の自由は錯覚ではない。もちろんその自由とは、物理を超えたオカルトのような自由を言っているわけではない。それは人が理念のために命を賭するように、意識が生体の制約を超える自由を得ていることを言っている。つまり意識の存在は自由に存する。そして情念が意識の始まりであるなら、その自由もまた生体の自由を得ているはずである。当然ながら情念の自由は、その始まりにおいて既に自然の価値判断への反逆を試されたはずである。すなわち物理への反逆は、理性の特権であるよりむしろ情念の特権でなければいけない。


13)情念の観念論的自由

 既に述べたように情念の自由が成立する条件は、知覚から遊離した情念の暴走ないし独走である。それは情念自身が行う場合もあれば、知覚自身の静止において始まるかもしれない。暴走した情念の無謀な賭けは、命と引き換えに自由を得る。ただし情念の賭けは、まず肉体的価値判断としての自らを離脱せねばならず、さらにそれを規定する自然の価値判断にも打ち勝たなければならない。しかし情念の自己否定は、情念を情念ではないものにする。すなわち情念の脱自は、価値判断を理性に変える。それは生体にとって必要であるにせよ、情念にとって不可能事である。一見すると情念の暴走は、肉体および自然の価値判断の前に挫折を宿命づけられている。ところが実際には情念の暴走がそれらの価値判断に打ち勝ち、それらを無効にすることがある。軍隊蟻の行進では、行く手を遮る断崖や小川を仲間が手足と口で繋がりながら橋を作って渡って行く。一見するとそこには、状況を見渡す知性とチームワークを可能にする連帯意識があるように見える。ただしその知性と連帯意識は、人間におけるそれではなく、軍隊蟻の本能にすぎない。本能は蟻の種としての歴史において誕生したものであり、数多くの失敗と挫折の中で形成される。そこに想定される種の歴史には、橋の形成と無関係な試みを繰り返して死滅した数多くの蟻のグループ、または橋を構成しようとして転落して小川に流されただけの数多くの蟻のグループ、さらに橋の成功を本能に刻み込まずに死滅した数多くの蟻のグループが登場する。しかし生き残ったのは、橋を形成する本能を得た蟻のグループだけである。ここでの本能とは、種族の身体に刻み込まれた成功の経験である。その内実は成功した経験の単なる反復であり、偶然の集積にすぎない。すなわちそれは理性ではない。したがって蟻が作る橋の最初の姿は、先に進もうとする仲間を踏み台にしただけの人柱の橋である。その人柱の橋がチームワークの橋になる前に、多くの蟻が一方で肉体の価値判断、他方で自然の価値判断の犠牲になったと考えられる。しかし蟻の情念は、集団の力において最終的にそれらの価値判断を撃破する。つまり蟻の歴史で成功を牽引するのは情念である。情念が自然法則を喰い破り、個別の生体において為し得なかった死の超克を、種を媒介にして個別の生体に実現する。個別の生体が死の脅威を前にして肉体および自然に屈服せざるを得なかったのに対し、その全体としての種は、それらに反逆しその支配を転覆して死の脅威を克服している。しかし情念におけるこの価値判断に対する反逆は、蟻の身体に属する肉体的価値判断が、身体以外の自然の価値判断を転覆しただけだとも考えられる。ここに登場する蟻の情念は、飢餓の苦痛であり、肉体に規定されているからである。それは個別の蟻における肉体支配の離脱に対し、種としての蟻がいまだ肉体の支配下にあるのを示している。


14)情念の唯物論的自由

 情念の暴走が一見すると生体の自由の如く現れるのは、情念の暴走が肉体における制約を飛び越えるからである。また飛び越えたからこそ、情念の暴走が暴走として現れる。すなわち情念の暴走が暴走として現れるのは、肉体の受容可能な情念の大きさに対して、情念が巨大すぎたからである。この肉体の受容可能な情念の大きさをコップの大きさで例えるなら、巨大すぎる情念はコップから溢れ出て、溢れた分の情念は全て肉体における制約から外れた自由な情念として現れる。この量から質への転化が、情念に自由の外観を与えている。したがって同じことをコップから溢れ出ない形で例えるなら、コップから溢れ出ない情念は、肉体における制約の内に留まっており、生体の自由として現れないのだと判る。そこで次に見方を変えて、情念をコップより大きくすることにより情念を自由にするのをやめて、コップを情念より小さくすることにより情念を自由にする。ここでの情念の自由化の理屈は、情念の巨大化によるコップからの情念溢れとそれほど変わらない。コップの矮小化によるコップからの情念溢れでも、溢れ出た情念はコップの制約から自由になる。ただし情念の大きさはもともとの大きさである。すなわち情念は、もともとの自らの大きさのまま自由になる。情念にとって自ら大きさを変えないことは、情念にとって自らの巨大化により得た自由とかなり違った自由を生体にもたらす。情念の巨大化はそもそもの情念の意味を変えないのに対し、コップの矮小化はそもそもの情念の意味を廃絶するからである。例えばコップに比して巨大化した恐怖は、恐怖のあまり生体をコップから逃亡させるが、恐怖に比して矮小化したコップは、生体において恐怖を無意味にする。なるほどいずれにおいても溢れ出た恐怖は、生体にとってコップの大きさに即した自由の行使である。しかし前者の恐怖は強化された恐怖であり、後者の恐怖は陳腐化した恐怖である。前者の恐怖は生体をコップから自由にした代わりに、生体を恐怖に拘束する。後者の恐怖は生体をコップからも恐怖からも自由にする。したがって後者の恐怖では、生体にとってコップも恐怖も既に一種の遊具のようなものに変わる。この情念の独走は、先に見た情念の暴走と違い、自然の制約が勝手に縮小する自然の偶然、ないしは生体における意図せざる能力の嵩上げ、すなわち価値の本源的蓄積が引き起こす。それは孔雀の羽根のように、自然の制約から解放された自由な自己発現として現れる。


15)意識の成立

 上述内容をここでまとめると、次のようになる。まず知覚は物理である。また悟性による知覚認識も物理である。次に知覚に類する内感も物理である。そして悟性による内感認識も物理である。情念はこの内感から派生する。すなわち知覚から情念が派生するのであり、情念から知覚は派生しない。ただし情念は内感と価値を悟性が結合する価値判断である。価値判断は生体の自由な選択を含み、価値の選択において自らを単に投げられるものから投げるものに変える。それゆえに情念の価値判断は意志であり、意識として現れる。したがって意識は情念において始まる。この知覚の情念への変化では、価値判断における自由な選択が重要な役割を果たす。その自由な選択では、自然の物理的価値基準と肉体の生理的価値基準、および情念の恣意的価値基準が対抗して現れる。もし肉体の生理的価値基準と情念の恣意的価値基準が単純一致するなら、生体は無自覚的に自由である。ただしその自由は内実的に単なる本能である。情念による自然の物理および肉体の生理に対する反逆は、一方で情念の暴走により発現し、他方で環境制約の廃絶により発現する。両者ともに自然や肉体に対する情念の自律をもたらす。しかし前者における肉体に対する情念の自律は、情念に対する肉体の規定を変えず、それを強化する。その自律は肉体による規定を温存する自律でしかない。その情念は自らを制約し、むしろ自らを不自由にする。自然や肉体に対する情念の真の自律をもたらすのは、後者である。このような上述のまとめに捕捉するべきことは、次のようなことである。まず自由は生体の自由として身体の実在を前提にする。しかしこの前提は、自由の成立における制約であり、自由の行使における制約ではない。したがってこの説明における自由は、スピノザ式機械論が考える自由の錯覚ではない。意識は自律しており、言葉の意味そのままに自由である。それだからこそ極端な例えにおいて、この意識は自殺の選択をすることもできる。一方で価値は、その内容に関わらず、生体における生の法則として生の意味を成す。そしてその価値を体現するのが情念である。したがって情念の欠如は価値の欠如をもたらし、そのまま生を無意味にする。意味は無くても物は実在するであろうが、意味が無ければ生は実在しない。生の実在は自由の実在とともにある。それゆえに自由の無い世界とは、死の世界である。情念は生体の意識の根源であり、その自由のゆえに知覚からも物理からも遊離する。なるほど情念は生体の情念として物理の知覚を前提にする。しかしこの前提は、情念の成立における制約であり、情念の価値判断において制約とならない。
(2018/11/15) 続く⇒(知覚と情念(3)) 前の記事⇒(知覚と情念(1))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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